" 私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。
また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。"
使徒の働き 20章29~30節
パウロは各地の教会の監督たちを集めてはっきりと予告したことがあります。
教会の中に「凶暴な狼が入り込み、容赦なく群れを荒らし回る」・・。
恐らくその筆頭は反対するユダヤ人で、「律法」という戒律をそのまま持ち込もうとする者たちであったと思われます。
またパウロは、「あなた方自身の中からも」いろいろ曲がったことを語って、弟子たちを「自分の方に引き込もう」とする者たちが起こってくる、と言っています。
それはいわゆる「党派心」から来る行動です。
私たちは自分の内に「肉の性質」すなわち「自分をそこに表わしたいという思い」が基本的にあるということをを先ず認める必要があるのかもしれません。
自分の考えていることが本当に御霊から来るもの、すなわち「愛」から来ていることなのか、あるいは単に「自分」を主張するためだけのものなのか・・実はそれはとても見分けにくいものなんですね。
心に思ったことはまずワンクッションおいて、みことばに照らし合わせてみる・・。
神のみことばによって、私たちの歩みは確かなものとされるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

今週はこんなタイトルです・・ 【聖書の究極のメッセージ】
〜「聖書のこと、話してみます」のお時間〜
アップしました。
https://www.youtube.com/watch?v=FuPJThqMhKs
God Bless You !
" あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。"
使徒の働き 20章28節
パウロのこの「遺言説教」は、監督(教会の指導者)たちを集めてされたものでした。
自分自身に気を配る・・それは自分が「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧する」のに、ふさわしいかどうかということを常に吟味せよということです。
神がご自分の血をもって買い取られたものが教会なら、それは完全に神のものだということです。
それはすなわち、教会とは神の御手によって成長させられるものだということでもあります。
教会を導き成長させるのは神、、具体的には聖霊なんですね。
結局指導者は「聖霊によって全てをしようとしているか」が問われている、ということになるわけです。
そして、群れの全体に気を配る・・それは群れの全体(教会)がキリストのからだとして健全であるかということに、常に心を配れということです。
それは、そこに愛があり、心からの礼拝があり、共にパンを裂く・・それはキリストのからだと流された血を覚えるということ・・、そして共に祈り合い、戒め合い、教え合い、主なる神を心から喜んでいるか・・、ということです。
群れが健全であるかを常に心に留め、その成長は聖霊にゆだねる・・これが教会の指導者のつとめだというわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 今、私には分かっています。御国を宣べ伝えてあなたがたの間を巡回した私の顔を、あなたがたはだれも二度と見ることがないでしょう。
ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。
私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。"
使徒の働き 20章25~27節
パウロはもう「誰の血に対しても責任がない」と言いました。
それは「神のご計画のすべてを余すところなく知らせた」からだというのです。
パウロが人々に伝えたのは救い主イエス・キリストの存在ですが、実はそれは「神のご計画のすべて」につながる話なのだというわけです。
神のご計画・・、それは神がこの天地万物を創造されてから、聖書に記されている「終わりの時」までのご計画のことです。
アダムの離反に始まり、ノアの洪水、アブラハムの子孫の祝福、出エジプトとイスラエル建国、そして滅亡。
そしてキリスト降臨と十字架と復活、イスラエルの離散、教会の時代、そしてこのあとにやってくる終わりの時の大艱難時代と千年王国。
さらにそのあとには、天地創造以来のすべての者がその行いに応じてさばかれ、最後に「いのちの書に名が書き記されている者」に天の御国を与えてその民とする・・。
神のご計画はここまで続き、実現するのだというのです。
それは神が、この罪にまみれた世の中から、ただ神に拠り頼む者を選び出して造ろうとされている「神の国」の計画なんですね。
聖書にはそのすべてが書き記されているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。"
使徒の働き 20章24節
パウロは、自分の任務は「恵みの福音」を証しすることだと言っています。
「恵みの雨」という言葉があります。
それは大地を育成して草木を生育させる雨です。
それは天から与えられた「恵み」に他なりません。
最も大事なものは皆タダだということがよく言われます。
太陽も、空気も、水も・・。
そしてこの福音も、天(神)から注がれている恵みだというのです。
それはすなわち、神の側から一方的に、すべての人のために与えられたものだということです。
神の御子が地上に来られ、その御子が人の罪の赦しのために十字架にかかられたということが、人の考えで作り出されたというのなら、これほどの身勝手なことはありません。
勝手に「神の赦し」をでっち上げるのですから・・。
福音は神の側から発せられたのです。
コロナ禍で国が発した救済措置の知らせがすべての人に行き渡っているかというと、少し心配になりますが、パウロは神の救済措置を知らせるためなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思わないと言っています。
天から発せられた恵みの福音は、すべての人に届かなければいけないのです。
福音とは、神から発せられた「滅びからの救済の知らせ」なのですから。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ご覧なさい。私は今、御霊(みたま)に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。"
使徒の働き 20章22~23節
私たちは「大黒柱」を失ったら、立つ瀬を失い、何を信じて、何を基準にして生きていったら良いのか分からなくなってしまう・・それはなんとなく想像がつくことです。
大黒柱とは、精神的な支柱、価値観、あるいは家の主人、また財産・・、それは様々ですが、自覚はなくとも、人はこのような何かに拠り頼んで生きているんですね。
自分の才能、力、健康・・、それらも頼るもののひとつです。
しかし、これらはすべて「この世のもの」です。
それに対しクリスチャンは、絶対に裏切ることのない、死を超えて永遠に真実を尽くしてくださるお方、イエス・キリストを信じて新しい歩みを始めた者です。
そしてそれを常に示し、信じる者を具体的に導くのが御霊(みたま)=聖霊という存在です。
パウロは、この御霊から離れたら、自分は何もできないことを知っていました。
たとえ死が待ち受けていたにしても、そこにすべてがあることを知っていたのです。
神に仕える者の中には殉教の死を遂げた人が多くいます。
このことは「死」の意味が完全に塗り替えられたことを人々に示しているんですね。
死の力を打ち破られたイエス・キリストこそが、真により頼むべき「まことの大黒柱」なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。
ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。"
使徒の働き 20章20~21節
パウロの「遺言説教」の冒頭部分の後半です。
パウロは、ユダヤ人にもギリシア人にもすべての人にとって 「益になること」を、しかも「余すところなく」伝えたと言っています。
それは、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、その二つでした。
神に対する悔い改め・・その意味は、まことの神がおられることを信じるいうことです。
今まで信じていなかった・・そのことこそが悔い改めるべきことだというのです。
そういう意味で、私たちは神の前に罪人だと、聖書は言っています。
そしてそんな私たちに必要なことが「イエス・キリストに対する信仰」だというのです。
私たち罪人が神のもとに帰るために、神自らがしてくださったことがあります。
それは、御子キリストを私たちの罪のためにあがないとして十字架に付けられたということです。
私たちが神のもとに帰るための条件が、神の手によって整えられたのです。
その上で神は、私たちに一つのことを要求されました。
それは「そのことを信じる」ということです。
これが「主イエスに対する信仰」の意味です。
「悔い改め」と「主イエスに対する信仰」によって、人は神のもとに帰ることが出来る・・。
これがパウロが「余すところなく伝えた」、まさにそのことだったわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らが集まって来たとき、パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。
私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。"
使徒の働き 20章18~19節
パウロがミレトスに各地の教会の長老たちを呼び寄せ、そして語り始めたこの説教。それは遺言説教とも言えるものでした。
この話を聞いている長老たちは、パウロが最初にアジアに足を踏み入れたときから、どのようにして各地の教会と関わってきたかを、よく知っていました。
パウロのこの宣教の行程には、常に陰謀といのちの危険が付きまとっていました。一度は石打ちに会い、ほぼ死んだのではないかと思われるような傷も負いました。
パウロが宣教の旅を始めて以来、そこにはいつも試練がありましたが、そこでの姿勢は常に「謙遜」であり、涙が伴っていたというのです。
そしてそのことの本質は「主に仕えること」だとパウロは言っているわけです。
主に仕える・・、それはすべての人のために十字架にかかられて、いのちを差し出してくださった主イエス・キリストに仕えるということです。
ですから、宣教の働きは自ずとこのキリストの形を帯びることになります。
謙遜とは、うわべの言葉のことではなく、心の姿勢が行動に表れてきたものです。
その心の姿勢こそが、主イエス・キリストの十字架なんですね。
そしてそこには常に涙が伴っていたというのです。
その涙・・、それは魂の救いをうめくようにして求めて出てくる涙なのではないでしょうか。
パウロの試練、謙遜、涙・・そのすべては、主がいのちをかけて私たちを愛してくださった、その愛から来ているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" パウロはミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。"
使徒の働き 20章17節
パウロはギリシアの南端に近いコリントから、陸路を通ってエルサレムに向かいました。
その際、7人の弟子たちを先に行かせ、あとからパウロはそれを追います。(3-4節)
先に人を送り、そして後から行く・・、それは相当慎重に危険を回避しながらの行動であることをうかがわせます。
パウロはアジア(トルコ)の西海岸トロアスで先発隊と合流し、そこでは7日間滞在して、最後の日に夜中まで話をし、別れを惜しみます。(5-10節)
そしてこのあと、今度はルカたちが先に船でアソスに向けて出発します。
ここでも先発隊を船に乗せ、パウロは陸路で一日の行程を歩いて行ったのです。
そしてアソスでルカたちが乗っている船に乗りこみ、ミレトスというところまで行くのです。
先発隊によって船の安全を確認してから、パウロがその船に乗るようにしたのだと考えられます。(13-16節)
ミレトスはあのエペソから歩いて三日ほどの港町です。パウロはこのミレトスから各地の教会の長老たちを呼び寄せます。そこで話したことがこの17節以降に記されています。それは「遺言説教」とも言うべきものでした。
パウロはこのときすでに、死を覚悟していたんですね。
死の覚悟・・、それは世の人々にとっては終わりを意味します。
しかしパウロにとってそれは「残された時間を主とともに走り抜く」という決意の時であったことが、この後の記事を読んでいくとわかります。
パウロは「終点」をはっきり見据えていたんですね。
それは死ではなく、その先の「天の御国」という具体的な目的地だったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)