
GraceCafeたいむ #102 【だれでも新しく造られる】
アップしました。
https://www.youtube.com/watch?v=BTQQlLnoBoA
God Bless You !
" ところが、水夫たちが船から逃げ出そうとして、船首から錨を降ろすように見せかけ、小舟を海に降ろしていたので、
パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません」と言った。
そこで兵士たちは小舟の綱を切って、それが流れるままにした。"
使徒の働き 27章30~32節
漂流して14日目になり、水夫は何処かの陸地に近づいている気配を感じます。
そこで水深を図ると徐々に浅くなっていることが分かり、取りあえず座礁を避けるために錨を降ろし、夜明けを待っていました。
ところが水夫たちが・・というのが今日のくだりです。
初めは囚人パウロの言うことよりも、船長や船主のことばを信じた百人隊長は、今やパウロのことばに耳を傾けるようになっていました。
私たちは何を信じたら良いのか、迷うことがあります。
百人隊長は、パウロのことばの権威をすでに感じ取っていたんですね。
「皆さん。元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」(25節)
百人隊長は、小舟の綱を切ることには躊躇したかもしれません。
それでも即座にパウロのことばに従ったのです。
そしてこのことによって、実に船に乗っていた276人全員が無事に陸に上がったのです。(37節.44節)
神は、神に目をとめる者には真実を尽くされるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 「昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』
ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」"
使徒の働き 27章23~26節
暗闇と激しい暴風が何日も続き、すべてを捨てた船の中で人々は望みを失っていました。
その時パウロは声を上げて、人々に語りました。
それは、船は失われるけど、ここにいる一人としていのちを失う者はいないということでした。そしてさらに続けて語ったのが今日の箇所です。
それは嵐の中で語られた「神からのことば」でした。
もし自分がその場に置かれたら、それを信じるということは、本当に難しいことだと思わされるに違いありません。
そんなときに人は、自分のいのちのことにしか目が行っていませんから。
でもそんな中でパウロは力強く語りました。
「私に語られたことは、そのとおりになるのです。」
これはそのまま、あなたにも私にも与えられている「みことば」なんですね。
たとえ今、あなたが嵐の中にあっても、聖書を通してあなたに語られていることは、必ずそのとおりになるというのです。
みことば・・、それは力です。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた。"
使徒の働き 27章20節
この20節の状態に至るまで、わずか三日間でした。
人々は曳航(えいこう)していた小舟を船に引き上げ、船をロープでぐるぐる巻きにして補強し、座礁を避けるために余計な船具を捨てて船を軽くし、流されるに任せることになり、とうとう最後には運ぶべき荷物も船具も、何もかも捨てました。(16-19節)
そしてこの20節・・、その後も暗闇と激しい暴風が「何日も続き」、人々は望みまで捨てなければいけないというところまで来たのです。
この状態に至って初めて主は、すべてを失うけれども命だけは助かるということを、パウロを通して人々に告げられます。(21-24節)
黙示録には「大艱難時代」と言われる、世の終わりのことが書かれています。
それはこの、海で遭難し絶望した人々の状態と同じような出来事が、地球レベルで起きるというものです。
しかしその時には、「わたしを信じるなら、あなたのいのちが損なわれることはない」という神からの知らせが、地の果てまで届いているというのです。(マタイ24:14)
これが福音です。
すべてを失って神と出会う・・、神はなぜそのようなことをされるのでしょうか。
それは神こそが、それを失えば滅びしかないという、まことのいのちだから・・。
だからこそ神は、そのようななさり方をしてまで、かたくなな私たちを導かれるのです。
最悪の出来事・・、それは神を見出すところなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" また、この港は冬を過ごすのに適していなかったので、多数の者たちの意見により、ここから船出し、できれば、南西と北西に面しているクレタの港フェニクスに行き、そこで冬を過ごそうということになった。
さて、穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりになったと考え、錨を上げて、クレタの海岸に沿って航行した。
ところが、間もなくユーラクロンという暴風が陸から吹き降ろして来た。
船はそれに巻き込まれて、風に逆らって進むことができず、私たちは流されるままとなった。"
使徒の働き 27章12~15節
結局船を出すことになったのは、船長や船主の意見であったと同時に、「多数の者たちの意見」でもあったことがわかります。
要するに「多数決」で船出を決めたわけです。
「この港は冬を過ごすのに適していなかった」ということで、人々はそこにとどまりたくはありませんでした。しかもそこに「穏やかな南風が吹いてきた」のです。
それはあたかも「今船出しなさい」と言われているようでした。
しかしそれがただの「希望的観測」だったということが、出航してすぐに分かることになります。
私たちクリスチャンは多数決で物事を決める民主主義ではなくて「神主主義」なんですね。
神が私たちを導かれるのです。
しかし私たちクリスチャンでも、実際に導いて下さる神を横に置いて、自分の考えで進もうとする傾向があります。
ですから私たちは余計に「主に聞く」「主に従う」・・、そのことに心を割く必要があるんですね。
その時、私たちの歩みは、多数の者の意見とはまったく異なる歩みになるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。そこでパウロは人々に警告して、
「皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」と言った。
しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。"
使徒の働き 27章9~11節
いよいよパウロは、ユリウスという百人隊長によって、数人の囚人とともにイタリアに向かうことになります。その行程は船を乗り継いでいくという、荒天などの危険を伴った長い旅でした。
一行は船を乗り継ぎ、クレタ島の「良い港」というところにやっとたどり着きますが、このときすでに、天候は荒れ模様になる季節にさしかかっていました。(1-8節)
百人隊長ユリウスが囚人のパウロが言うことよりも、経験豊富な船長や船主の判断を尊重したのは無理もないことです。
しかし結局パウロの忠告を聞いておけば良かったという事を、ユリウスや船長は出航してから思い知ることになります。
専門家はその豊富な経験をもって、物事を判断します。
しかし豊富な知恵や確信をもって歩もうとしても、その通りには行かない・・。
これが世の常です。
しかし主は、すべてを支配される全能の主なのです。
「世の常」よりも上におられるお方なのです。
主はすべてのことを通して、ご自身が生きて働かれる神であることを現されるのです。
しかも往々にしてそれは、「最悪の事態」を通してなんですね。
ではそのことをこれから見て行きましょう。
この「使徒の働き」も終わりに近づいてきました。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らは退場してから話し合った。「あの人は、死や投獄に値することは何もしていない。」 また、アグリッパはフェストゥスに、「あの人は、もしカエサルに上訴していなかったら、釈放してもらえたであろうに」と言った。"
使徒の働き 26章31~32節
フェストゥスもアグリッパ王も、パウロが上訴なんかしなければ自由の身になれたのにと思ったわけですが、実はここで釈放されたら、パウロはまたとんでもない命の危険の中に放り出されることになります。
実にカエサルに上訴したということで、パウロはローマ軍によって身の安全を確保され、エルサレムのユダヤ人達の手の届かないローマまで行くことができるようになったんですね。
実はパウロはエルサレムで捕らえられていたときに、主から語られていたことがありました。
・・「あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」・・。(23章11節)
それは神のご計画であると同時に、「必ずこうなる」というパウロへの約束でした。
聖書の中には「神の約束」が星のようにちりばめられています。
「神の約束」・・それは必ず成るのです。
しかし私たちは目の前の出来事を見て心が揺れ動き、暗澹(あんたん)たる思いに襲われてしまいます。
その時「自分」に向いているその目を「神の約束」に向けるなら、その約束のことばには大いなる力があることを知るに違いありません。
聖書の中の「神の約束」・・、それはあなたの上に置かれているものなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" するとアグリッパはパウロに、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。"
使徒の働き 26章28節
フェストゥスもアグリッパ王も、「さあ、このイエス・キリストという方を信じてください」という段になる手前で、パウロの話をきっぱりと拒否しました。
パウロが話したのは実際「わずかな時間」でした。
しかし、はっきりした出来事を目の前にし、その証言も聞き、聖書の中にもそのことが記されているのだという話を聞いたら、あとはそれを信じるか信じないかを決めるだけなのです。
イエス・キリストを信じるために、何ヶ月もかけて学ぶ必要はないのです。
イエス・キリストは今あなたの目の前に存在する「救い」ですから、それを信じて心の内にこの方をお迎えしたときから、その人にはこの方との歩みが始まるんですね。
そしてその歩みの中で、この方はこんな方だったのかと、改めてびっくりする毎日を過ごすようになるわけです。
信じるために必要な情報は「わずか」なのです。
1.イエス・キリストというお方は、神が人のために遣わされた神の御子であるということ、すなわち神だと思って良い方であるということ。
2.この方は、あなたが神のもとに帰るために必要なことを成し遂げてくださるために、人の形をとって来られた方であるということ。
3.それがあの十字架と復活で、十字架は神に背を向けているあなたの罪のための供えものであるということ。
4.このキリストの死と復活は事実であり、このキリストと一緒になって、今まで神を認めず自分中心に歩んでいた「古い自分」が死んで、新しい永遠のいのちに生きる者とされるということ。
このことを信じて、神の前に「イエス・キリストを救い主として信じます」と祈るなら、あなたは救われるのです。
これは「わずかな時間」かもしれませんが、ここで拒まなければ、あなたは文字通り「新しく生まれ変わる」のです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」"
使徒の働き 26章24節
パウロの弁明は、アグリッパ王そして総督フェストゥスほか、町の重要人物の前でなされました。
それはイエス様との出会いによって、自分はユダヤ人をはじめ異邦人にも、悔い改めて神に立ち返るように宣べ伝える者になったのです、という話でした。
さらにパウロが語ったことは、ここで起きている出来事は「預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったこと」、すなわち聖書に書いてあることと一致しているのだということでした。
そしてそれは、イエス・キリストの死と復活によって与えられる希望の光なのだ・・と。(22-23節)
その時、総督フェストゥスは叫んで言った・・、それが今日の箇所です。
人の基本姿勢・・、それは「神の話には入っていかない」というものなんですね。
でも実はこれが、運命の分かれ道となるわけです。
すべての重荷をおろして、神の赦しと愛の中に生き、永遠のいのちをいただくという、他では聞いたことのない祝福を、受け取るか受け取らないかの分かれ道・・。
聖書を読んでみようかな・・、これが人の運命を変える「分かれ道」なのです。
福音に耳を傾けること・・、それがすべての始まりなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)