" 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。
夕があり、朝があった。第五日。"
創世記 1章20~23節
創造の第五日に神は、「動きまわる生き物」を造られました。
その最初は水に群がる生き物。そして地の上には大空を飛ぶ鳥だというのです。
水の中の生き物・・その中には「海の巨獣」もいたと書かれています。
私たちが知っている海の巨獣・・それはクジラですね。
そして水の中に「群がりうごめく」すべての生き物・・。
ウミウシというのを見たことがあるでしょうか。
そのデザインたるや、舞踏会で婦人たちが着飾るドレスよりも遥かに絢爛豪華な色彩と形をしているではありませんか。
そのデザインの豊富さには腰を抜かすほどです。
鳥・・それはみな翼を持っています。
鳥の羽を見たことがあるでしょうか。
それをよく見ると、羽一本のデザインの完璧さに、心底驚かされます。
そしてそれを手にしたときに最も感動するのは、その「軽さ」です。
そしてその羽が体から生え出て一つの美しい「翼」を形成し、それは飛ぶための力学的デザインの条件をも完璧に満たしているのです。
神はそれをよしと見られた・・。
神の創造は「美の極み」なんですね。
アーティスト・・絵画も、舞踏も、音楽も、詩も・・、彼らがしていることは、神が創造したものの再現なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、
また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
夕があり、朝があった。第四日。"
創世記 1章16~19節
第一日目に神はすでに「昼」と「夜」を造られたとあります。(5節)
この昼と夜というのは、光と闇という「概念」の創造。
そして第四日目に、神は私たちが実際に目で見ることのできる「光」を造られたというわけです。
その具体的な記述が、この第四日目の後半です。
最後に出てくる「星」・・、それは、その一つ一つが渦巻き状になって形成されている気の遠くなるようなスケールの銀河、そしてその銀河によって形成される銀河群、さらにそれらが集まる銀河団、さらにその銀河団が集まる超銀河団があるというのです。
そしてそれらの銀河集団が「泡」のような形で存在することによってこの宇宙空間ができあがっているということが、実際の観測によって分かってきているというのです。
しかし地球上で生活する私たちにとっては、この「二つの大きな光る物」の方が身近な存在です。
この大小の二つの物を使って、神は目で見ることができる「昼」と「夜」とを造られたというのです。
さて、私たちが空を見上げたとき、この二つの大きな光る物、すなわち太陽と月は「見えるサイズ」としてはほとんど同じ大きさなんですね。
あるときは皆既日食となり、あるときは金環食となる・・。
ということは、神はこの実際には遥かに違うサイズの二つの大きな光る物を、ほぼ同じ大きさに見える「大きな光る物」として天に置かれたということになります。
天地創造の経緯の、このようなほんのちょっとした記述を見ても、私たちは身震いしそうになりますね。
創造主の御名をほめたたえます。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【私たちの国籍は天にあります】 です。
GraceCafeたいむ #106
https://www.youtube.com/watch?v=AhBlceLMMis
God Bless You !
" 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。
また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。"
創世記 1章14~15節
この14-15節は、「神が言われたこと」です。
そしてこのあとの16節にその具体的な出来事、すなわち太陽と月(ふたつの大きな光る物)、そして星を作られたという記述が出てきます。
神がここで命じられたことは、光の存在。そしてその光は天空に源があること。
そして、昼と夜。そして時刻、一日、そして年という「時間の概念」が実際に手に取る形で存在するようにということでした。
神はここで初めて、実際に粒子として飛んでいく「光」を作られたのです。
そしてその光の源を天の大空に置くことにされたわけです。
そして同時に神は、昼と夜、時刻、一日、そして年という「時間の概念」を実際に見える形で造られたというわけです。
神は、創造の初めから「第一日目」ということばをもって、時間の概念を造られていました。(1-3節)
そして三日目には「光あれ」と言われて光の概念を造られていました。
神はそれらをこの第四日目に実際に形とされたというわけです。
概念の段階で、それはすでに被造物なんですね。
天地創造の初め以前・・、そこには「無」さえなかったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。
地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。"
創世記 1章11~12節
神は三日目に植物を創造されました。しかしそこにはまだ、太陽がないのです。
太陽はこのあとの四日目に天に据えられます。
しかし植物というのは、太陽による光合成がなければ存在し得ないものです。
太陽がない段階で、神は植物を造られたというのです。
これは科学的に見るなら、どう見ても矛盾していることです。
人間の知恵で自然界を解き明かそうとする「科学」は、何事にも原因があるという考え方です。
ですから、宇宙空間の存在に関しても、「ビッグバン」という「はじめの段階」という仮説を作らなければならないし、人間の存在にしても、最初にアミノ酸というものの「偶発的な発生」という仮説から始めて「進化論」としなければ成り立たないのです。
聖書によるこの天地創造のステップは、まるでそのことを無視しているようです。
でもこのことは、ある一つのことを明確に示しているんですね。
それは、はじめの段階の「原因」は、創造主なる神にあるとのだいうことです。
順序立てて説明できるから、初めてそれが真理だと言えるのかというと、そうではないと言っているのです。
天地創造というのは、絶対無から絶対有を生み出すという、全能の神による「創造」のみわざなのです。
信仰・・、それはこの当たり前とされている科学的思考方法を、無意識のうちに飛び越えるという、一種の「離れわざ」なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。
神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。"
創世記 1章9~10節
神は三日目に「乾いた所」すなわち「地」を造られました。
それまで地は、全面が水で覆われていました。
ということは、このことを科学的な見地で考えるなら、地球の一部が隆起して高低差ができ、陸地と海ができたということになります。
ここでまた、あのノアの洪水のことを思い起こしてしまいます。
ノアの洪水の時には「上の水」がすべて降り注いだことにより、せっかくできた陸地が再び水で覆われしまったわけです。
そのときには、浅い所でも水深7メートルあまりになったと記されています。(創世記7:20)
箱舟は半年間海を漂い、半年経ったときに海の水は減り始め、結局ほぼ一年間、ノアとその家族は箱舟の中にいたことになります。
ここで再び陸地ができたわけです。
ということは、半年かけて天の水がすべて地に落ち、さらに半年かけて大規模な地殻変動が地球全体に起きたということになるわけです。
その結果、エベレストのような天にそびえ立つ山々やマリアナ海溝のような海の深みができた・・。
現にエベレストなどの最高峰の山々から、海の生物の化石が出てくるんですね。
私たちを囲む自然界・・、その一つ一つは神が天地万物を造られた全能の神であることを、見せてくれているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。"
創世記 1章6~8節
神の創造のみわざの第二日目。
はじめの地球の状態は、その全域を水が覆っていたと書かれています。(2節)
そして神は「大気」すなわち空気のある空間を、その水の中に造られたというのです。
そして水はこの大気によって二つに分けられ、大気の下と、そして上も水があったというのです。
神は、このあとに太陽を造られています。(16節)
ですからその時に「上の水」は雲となり、地球全体は雲ですっぽり覆われた温室のようになった・・。
そうだとするとあの「ノアの洪水」・・、それはこの「上にある水」のバランスが完全に崩れてしまい、その水がすべて地に落ちたその時なのではないか。
そしてその洪水の時まで生きた人の寿命が何百歳であったというのは、直射日光が当たらない温室のような温暖な気候のためなのではないか・・。
そしてエデンの園はその温暖な気候の中で、一年中実に様々な果実を実らせる木で満ち、アダムとエバは裸で生活していた・・。
そしてあの洪水により「上の水」は消え去り、初めて太陽が地にその姿を見せたそのとき、虹が出た(9章12-16節)・・と、なんとなく全体がつながってきます。
しかしある程度までは科学的な見方で理解することもできますが、それですべてを説明しようとすると、返って創造のみわざを見えなくしてしまうかもしれません。
神は被造物である私たち人間の想像の域をはるかに超えた全能の「神」なのです。
ですからその神のみわざも、私たちの知識の範囲にとどめてはならないのです。
私たちは信仰によって、初めて神を知ることができるのです。
ですから信仰によって、この創造のみわざも受け止めなければいけないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章3~5節
この箇所を読むと、創造の第一目に、神は太陽を造られたのかと思ってしまいます。
しかしこのあとを読んでいけば分かるように、実際に天空に輝く太陽や星が創造されたのは第四日目なんですね。
では「光、あれ。」と言われてできたこの光とは何のことでしょうか。
まだ天地を実際に照らす光の源はなかったのです。
ヨハネの黙示録の最後に出てくる「新天新地」・・、その様子を記していることばの中に次のような箇所があります。
" もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。" (ヨハネの黙示録 22:5)
第一日目に造られた光・・、それは神の存在として表わされた「光」だということになります。
そしてその光を神は「良し」と見られ、その「光」と「闇」が異なる領域のものであることを定められたというわけです。
神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられたとありますが、このときまだ太陽はないのです。
ですからこの「昼」と「夜」も、太陽による昼と夜というのとは異なる概念で使われていることばであるということになります。
さて、ここで「第一日」ということばが出てきます。
「時間」・・、実はこれも神が創造の初めに造られたものなんですね。
神の存在としての光、また時間、そして空間も、これらはすべて被造物であり、それらは第一日目に造られたものだというわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。"
創世記 1章2節
神はまず、どうしてこんなに大きな入れ物が必要なのかと思うほどの果てしのない宇宙空間と、その中にぽつんと「地」すなわち地球を造られました。
それが1章の1節に書かれていることです。
はじめ、その地球は「闇が大水の面の上にあり」と書かれています。
すなわちこの時点で地球は、闇で覆われており、その表面は水で覆われていたというわけです。
ということは、陸地はなかったということになります。
そしてその水の面・・すなわち、地球全面にわたって「神の霊」が動いていたというのです。
「神」についての理解として私たちは、「三位一体(さんみいったい)」ということばを使います。
神には三つの「位格 (形態) 」があるのですが、それは三つの神を意味するのではなく、それが神として一つの存在だという捉え方です。
その一つ目は、天地万物を造られた創造主である「父なる神」。
二つ目が、人が神とコンタクトを取るために父が遣わされる「神の子なるキリスト」。
三つ目が、神の力を直接地上に、そして人にもたらす神の霊・・「聖霊あるいは御霊(みたま)」。
1節には父なる神が登場します。そしてこの2節にこの「聖霊」がさっそく登場するんですね。
この「神の霊」が「水の面を動いていた」・・、それは地球全体に、神はその御力(みちから)をもって働きかけようとしているということを示しているようです。
いよいよその天地という器の中に満たされる「万物」の創造の始まりです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)