" それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。"
創世記 2章24節
前回、神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになった・・と書きました。
父と母を離れて、妻と結ばれ、ふたりは一体となる・・。
それは親子の血のつながった絆よりもさらに深い関係が、夫婦の関係においてはできあがるということを示しています。
「最初の人」の話をしているこの文脈の中で、「父と母を離れ」ということばが出てくると、おやっ?となりますが、言うまでもなくこれは、それ以来の「人のあり方」についての教えであるわけです。
これは聖書に出てくる最初の「戒め」であると言っても良いのかもしれません。
一体となる・・。
それはお互いが自分のからだとなるということです。
ですから二人で一体となるはずの夫婦関係に、別の存在が入り込めば、一体となったからだが不健全な形になるのは当然のことです。
夫婦関係を軽んじて、不倫を「文化」などと言ってしまうような考えは、神を知らない所から来ているのです。
人の行動の規範・・、それを造られたのも神なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。"
創世記 2章22節
神は人に、すべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられ、それ名を付けさせたのですが、そこにはふさわしい助け手が見つかりませんでした。(20節)
ふさわしい助け手・・それは動物の中には見いだせなかったというのです。
それで神である主は、人を深い眠りにつかせ、彼のあばら骨をひとつ取り、そこを肉でふさがれたとあります。(21節)
そしてそのあばら骨をひとりの女に造り上げたというのです。
この聖書の記事から、男のあばら骨は女よりも一本少ないという「都市伝説」がありますが、男女、あばら骨の数は同じです。
現代なら、人の骨からDNAを取り、ほんの少し違う所を作って、それを女にした・・と説明した方がわかりやすいかもしれません。
それはともかく、神はひとりの男に対して、ひとりの女を助け手として置かれたというのです。
聖書にある歴史の中において、王といわれる存在は、多くの女性を妻としていました。
しかしそこには常にトラブルが付きまとっていました。
それは結局、神の当初の意図とは異なるんですね。
神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになったのです。
助け手・・それは心を通わせ、語り合い、互いを高め合う・・そのような存在です。
人は夫婦となったら、そのような二人となるように、育(はぐく)んでいかなければならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。"
創世記 2章20節 前半
神である主は、人のための助け手として、先ずすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられました。
そしてそれらの生き物を人が何と呼ぶかをご覧になったというのです。
それで人がそれらを呼ぶと、すべてそれがその生き物の名になったと記されています。(19節)
人はこの時点ですでに、ことばを使うものであったことがわかります。
神である主は最初から人に「ことば」を与えておられたんですね。
どこの国のことばのようであったか、知りたいものです。
エデンの園を追放されたあと、人は地に増え広がるのですが、ことばは「全国共通」でした。ところがあのバベルの塔の事件以来、神である主は人のことばを混乱させて、地の全面に散らされたと記されています。(創世記11:6-8)
ことば・・、それは神である主が人に与えたものであり、それは人が神のかたちとして造られたことの最大のしるしなんですね。
1800年代の終盤になって、ルドヴィコ・ザメンホスという人が世界の共通語としての「エスペラント語」を作るという画期的な試みをし、世界的にも注目されていましたが、結局は普及しないで終わっています。
ことば・・それは神からのものなのです。
何気なくしゃべることばの中に、私たちは神の大きな存在を見ることが出来るんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」"
創世記 2章18節
神である主は、人のために「ふさわしい助け手」を造らなければならないと思われました。
人がひとりでいるのは良くない・・。
神は人を、人同士でつながることによって満たされる存在として造られたんですね。
その最初が「男と女」だというのです。(22節)
神は、人が互いが満たされるための最初の存在として「異性」を造られたというわけです。
動物も人も、異性がいることによって増え広がる存在となりました。
しかしそれよりも以前に、その(異性の)存在の意義は、「ひとりでいるのは良くない」というものだったというのです。
神はその存在を「助け手」として造られたというのです。
人は男女が結ばれて家庭を築き、子孫を設けますが、それだけで互いの存在意義が終わってしまうわけではありません。
それは「助け手」として造られたというのです。
その存在・・、それ自体が「助け」になるというのです。
そうではない面にばかり目を向け、互いを疎むようになってしまっては、互いの存在は苦痛を伴うものになってしまいます。
しかし「神に与えられた助け手」という認識で夫婦が互いを見るなら、そこには喜びがやってきます。
それが神の御心(みこころ)・・すなわち「神が喜ばれること」だからなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【たましいの安らぎの場所】 です。
GraceCafeたいむ #110
https://www.youtube.com/watch?v=5tj1v0XGeas
God Bless You !
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節・・(三回目です)
ところで「善悪の知識の木」って、何なのでしょうか。
善悪の知識・・それは天地万物を造られた神である主が、人が歩んで行く上で必要なこととして造られたものです。そしてそれは神の管轄下にあるものでした。
なぜなら、人にはそれを管理する能力はないからです。
善悪の知識は神との交わりの中で、神から直接受け取るものでした。
ですから人はエデンの園において、「善悪の知識の木」から実を取って食べる必要はなかったのです。
それを取って食べる・・それは善悪の知識を神からいただこうとせずに、自分で管理することに決めるという行為であるわけです。
神はそのことを「決してやってはいけないこと」として最初に示されたんですね。
善悪の知識の木からその実を取って食べると、人は神から離れて「神ぬき」で生きようとする者になる・・、そのことを神はご存じだったのです。
それは結局、神を信じようとせず、自分の知識と力で自分を守りながら生きる世界へとつながって行くわけです。
これが実は、アダム以来の人類の姿なんですね。
エデンの園の話・・核心に入っていきます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節 (前回と同じ箇所です)
神は人がご自分と共におられることの確認のために、ひとつのことをされました。
それは「食べてはならない」という命令に「従うか従わないか」によってそのことを見るというものでした。
結局「その木から取って食べる」ということは、神との関係を自ら損なうということです。
そしてその結果が「死」だというわけです。
それは毒物を摂取したことによって死ぬような死ではなく、「死ぬ人になる」ということです。
現にその実を食べたアダムはそのとき即座に死んだのではなく、930年生きて死にました。
ですから「必ず死ぬ」ということは、「人」は永遠に神と共に生きるものとして造られたのに、この禁断の実を食べるならそこに「死が入る」ということことを意味していたわけです。
さらに、世の始めから終わりまでという神の長期計画という所に視点を移すと、その中間地点で「死の力を打ち破った御子」の登場があるんですね。
それは、死後は無に帰すとか、他のものに生まれ変わるとかいうものではなく、その「死」自体がなきものとされ、今のあなたの名が付けられた「あなた」は、永遠に「あなた」として生きるための扉が開かれたということです。
年老いて死ぬ・・、それはアダムが禁断の実を食べたときから始まりました。
ところがそこに神は、ご自身の栄光を現されるために、この世に「御子イエス・キリスト」を送られ、死の力を打ち破って見せてくださったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節
エデンの園の話の最重要箇所です。
園のどの木から食べても良い・・。
それは、園の中央にあるいのちの木からも思う存分食べられるということでした。
これ以上求めるべきものはない最高の環境です。
ところが神は園の中央にもうひとつ、「善悪の知識の木」を生えさせられたというのです。
そしてそれを食べたら死ぬから、決して食べてはならないと、神である主はアダムに言われました。
神が言われたたったひとつのことを、守るか守らないか・・。
これが神が最初に設定した「人との関係のあり方」でした。
それは「人」が、ただ神の言いなりになるようなロボット的な存在ではなく、「自分で決める権利」を持つものとして造られたということを示しています。
神がまず最初に人に与えられたのは、人の「主権」と「尊厳」だったんですね。
そして人は、自分の心を使ってそれを守ることによって充足感が与えられるという・・、これは本来、神からの大きなプレゼントだったわけです。
ところが人はそれを捨ててしまった・・。
エデンの園の話の始まりです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。"
創世記 2章15節
アダムはエデンの園を耕すことを神から命じられていました。
アダムは園を守り、それによってその美しい姿が維持されていたわけです。
小さい子どもは何をするのも楽しそうですね。
走っても楽しいし、大人のまねをするのも楽しい。そして大人からすれば異常な集中力で物事を観察します。
これらのことは、神の祝福の中にあって、喜びと平安に満ち、知識はなくとも、神の祝福を謳歌しているその姿なんですね。
アダムの、エデンの園を耕していたその「労働」・・それも子どものように、なんの心配もなく、うれしいうれしいと言いながらしていたのではないでしょうか。
ところがアダムの失敗により、エデンの園を追放されたとき、主はアダムにこう言われました。
「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」 (3:17)
アダムはエデンの園で毎日遊んで暮らしていたわけではなく、「耕して」いたのです。
でもそれは神の光と喜びのうちにあっての日々でした。
同じ耕すにしても、苦しんで汗水流して働くのだとしたら、それはまったく別の世界です。
私たちはその別の世界に生きているというのです。
神とともにある歩み・・それは喜びの世界、本当のふるさとにおいての歩みです。
そしてそのふるさとへの切符が与えられた・・これが福音です。
すべての人の罪のために十字架にかかられ、死の力を打ち破ってよみがえられたイエス・キリスト・・この方の存在、それこそがその切符なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。"
創世記 2章9節
前回と同じ箇所です。
園の中央にある二本の木の中の「いのちの木」。それはその実をとって食べてもよい・・というより、なくてはならないいのちの源、祝福の源でした。
そしてもうひとつの「善悪の知識の木」。そこからはその実を取って食べてはならない・・というより、食べたら「死ぬ」というものでした。(16-17節)
園の中央にあった二本の木は、実に対照的な存在であることがわかります。
ひとつは「いのち」で、もうひとつは「死」なのです。
クリスチャンというのは、神との関係を回復させられた者です。
それはエデンの園のアダムのように、神と語り合い、神の平安の中で生きることが許された者です。
そしてそこにも、この二本の木が立っているんですね。
そのひとつ、いのちの木は、決して見放さず見捨てないと言われる主なるお方の存在です。
そしてもうひとつの善悪の知識の木・・それは、神を差し置いて自分の知識とか判断で生きていこうとする「古い自分」の存在です。
私たちの目の前にいつも置かれているこの二本の木・・、それは「いのち」と「死」を象徴する二本であるわけです。
私たちは自分の意思でこの「いのちの木」の方を選び取る・・、それが実は私たちに課せられた務めなんですね。
しかし間違ってはいけません。れを選び取るその力は、死と復活の主イエス・キリストのうちにあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)