" 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」"
創世記 1章26節 前半
この箇所の三回目です。
今回は「似姿」ということばに注目してみます。
神の似姿・・それは顔があって目があって・・ということでは勿論なさそうです。
父なる神は天地万物の創造者であって、宇宙よりも大きな存在ですから、顔とか目とかいう次元の話ではないわけです。
ではこの「似姿」とはどういう意味なのでしょうか。
それは先ず、神は人を、他のあらゆる生き物とはまったく異なる存在として造られたという意味が、そこにはあります。
神は人を、「神が分かる」「神と交流をすることができる」存在として造られたんですね。
「人」というのは他の動物、例えば猿などとはまったく異なる存在だというわけです。
人は進化の結果誕生した「動物」ではなく、はじめから別の存在として特別に造られたのだと、聖書は言っているのです。
信仰を持つことができるのは、人間だけです。
イエス・キリストは、信じる人の内に入られ、その人と共に生きてくださる・・。
そうして「人」は、共にいてくださるこの方によって、「神の栄光を表す」者とされました。
"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。" (コリント人への手紙 第二 3章18節)
神は人を、主と同じかたちに変えられていく「器」として造られたのです。
「似姿」ということばの意味は、ここにあるのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)