" 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。"
創世記 2章9節
前回と同じ箇所です。
園の中央にある二本の木の中の「いのちの木」。それはその実をとって食べてもよい・・というより、なくてはならないいのちの源、祝福の源でした。
そしてもうひとつの「善悪の知識の木」。そこからはその実を取って食べてはならない・・というより、食べたら「死ぬ」というものでした。(16-17節)
園の中央にあった二本の木は、実に対照的な存在であることがわかります。
ひとつは「いのち」で、もうひとつは「死」なのです。
クリスチャンというのは、神との関係を回復させられた者です。
それはエデンの園のアダムのように、神と語り合い、神の平安の中で生きることが許された者です。
そしてそこにも、この二本の木が立っているんですね。
そのひとつ、いのちの木は、決して見放さず見捨てないと言われる主なるお方の存在です。
そしてもうひとつの善悪の知識の木・・それは、神を差し置いて自分の知識とか判断で生きていこうとする「古い自分」の存在です。
私たちの目の前にいつも置かれているこの二本の木・・、それは「いのち」と「死」を象徴する二本であるわけです。
私たちは自分の意思でこの「いのちの木」の方を選び取る・・、それが実は私たちに課せられた務めなんですね。
しかし間違ってはいけません。れを選び取るその力は、死と復活の主イエス・キリストのうちにあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)