
今週の「たいむ」は、【天国に行く資格】 です。
あなたは自分が天国に行く資格があると思いますか・・
https://www.youtube.com/watch?v=mvbQp2t6jtg
God Bless You !
" 神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。"
創世記 3章23節
人はこの時になって初めて「耕す者」となったのでしょうか。
2章15節にはこのように書かれています。
・・神である主は人を連れてきて、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
人はすでにエデンの園において、そこを耕していたというのです。
しかし彼らは、それが何の目的のためかなどということは考えてもいませんでした。
ただ神が耕すように促されたので、彼らは何の疑問もなく園を耕していたのです。
そしてそこにはいつも、大きな喜びが伴っていました。
以上はあくまでも私の推測ですが、見てもいないのに、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。
私たちクリスチャンというのは、天国の前味を味わうことを許された者です。
ですから神とともにあって、神に従って歩むことの内にある喜び、その空気を知っているんですね。
ですからクリスチャンは、エデンの園において神とともにいる人の様子を、見てもいないのにおよそ見当をつけることができる・・というわけです。
神は人をエデンの園から追放し、汗水流して労苦して働かなければいけない世に送り出されました。
しかしその世において、神は人が再び神のみもとに帰る道を開かれたのです。
そして、その道を選んだのがクリスチャンです。
私たちクリスチャンは、主イエス・キリストにあって、神とともにある喜びを知っているのです。
この喜びを、いつもしっかりつかんで歩んでいきたいものですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」"
創世記 3章21~22節
神である主がアダムとエバを園から追い出すのは、園の中央にある「いのちの木」からその実を取って食べることによって、彼らが永遠に生きることがないように、というのがその理由でした。
善悪を知り、さらにそれをコントロールすることもできないような者が永遠に生きたら、それこそ収拾の付かない「世」ができあがってしまうに違いありません。
それで神は、ここから始まる「世」を、死が支配する世界にされたというわけです。
しかし神である主は、二人のために皮の衣を作って彼らに着せられたというのです。
それはこの二人の新しい出発に際し、神である主は彼らを見放したのではないということを示しているようです。
聖書を最後まで読むと見えてくること・・それは、神は当初の目的通り、永遠に生きる者を「この世」から選び出して、その人たちで構成される「永遠の御国」を創ろうとされていたということです。
「エデン追放」の話には、積極的な意味があったんですね。
皮の衣・・それは神がその壮大な計画を、愛をもって敢行されたことのしるしだったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。"
創世記 3章20節
生きるものとは勿論人間のことですが、その全ての源となったのがエバだというのです。
となると、アダムの子たちは、兄弟姉妹同士で子を儲けたことになります。
そしてそこから、人の数は爆発的に増え広がったということになるわけです。
アダムの長男のカインは、すでに町を建てる人になっていました。(4章17節)
このカインは弟を殺した者でした。
それで聖書はこのカインを、アダムからの系図から除いているんですね。
聖書が記しているアダム以来の系図は、特別な系図だったのです。
それはアダムが130歳になったときに生まれた子「セツ」に受け継がれました。
このセツについては、「アダムの似姿として、彼の形に男の子を産んだ」と記されています。(5章3節)
聖書を見ると、神との関係を受け継ぐ者としての系図が、たった一本の線でつながれていることが分かります。
その10代目がノアです。
ノアの時代、アダム以来の人々が形成してきた「世」は「神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」と書かれています。(6章11-12節)
それで神は、その暴虐に満ちた世界を洪水によってリセットするのですが、そのあとにもやはり人々が形成する世界は罪深い世界でした。
しかし神は、ノアの後も一本の系図で、救い主キリストまでをつながれているんですね。
この系図はイエス・キリストまでつながり、そこでこの系図はなくなるのです。
神はこのイエス・キリストに焦点を合わせて、ずっと人の歴史に介入してこられたということがわかるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」"
創世記 3章18~19節
神である主から「人」への宣告、後半です。
この神のことばからすると、エデンの園では人は裸でいても何の問題もない温暖な気候で、園にはいばらやあざみなどはない、まさに楽園であったことがうかがえます。
ところが人は今後、汗水流して働き、「ついにはその大地に帰る」ようになるというのです。
ここでは何が言われているかというと、人はこの時点で初めて「死ぬようになった」ということなんですね。
エデンの園において当初、人は死なない存在として造られたということです。
神とともに永遠に生きる・・。
それはまさに、イエス様が繰り返し言われた「天の御国」の様(さま)に他なりません。
はじめの「エデンの園」と、終わりの「天の御国」は、死がない世界なのです。
そしてその間(あいだ)の期間、すなわち人類の歴史が刻まれるその期間には「死」が入り、人はその死に支配されるようになったというわけです。
しかし神は、この「のろわれた期間」をそのまま捨て置かれることはしないで、それを大いなる希望の期間とされました。
時至って神は、人がご自身のもとに帰ることの出来る道を、御子キリストによって、死の力を打ち破ることによって開かれたのです。
イエス・キリストは、十字架で死んで、三日の後に、よみがえられたのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

あなたは勝ち組ですか、負け組ですか・・
今週の「たいむ」は、【本当の勝ち組】 です。
https://www.youtube.com/watch?v=L35wXdA3wsg
God Bless You !
"女にはこう言われた。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」
また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。"
創世記 3章16~17節
蛇=サタンへの宣告に続いて、神である主からの「女」と「人」への宣告・・これが今日の箇所です。
産みの苦しみは、男には想像のつかない苦しみです。
しかも女は夫に支配されるようになるというのです。
続いて神である主は、男にも宣告を下します。
苦しんで食を得るようになる。しかも一生の間・・。
このようなことはエデンの園にはないことでした。
それが、園を追放されて以来の人の歴史の中には、それがずっとついて回ってきているわけです。
そんなこの世においてイエス様は、女性の苦しみやうめき、そしてその立場を省みられるということを公然とされました。
しかしそれは「世の常識」からは、かけ離れたことでした。
エデンの園にはそれがあったわけです。
そしてそれは、来たるべき天の御国においてもそれは当たり前のようにあるわけです。
私たちクリスチャンは、天の御国の前味を知った者です。
ですから私たちは、男女の権利というようなレベルではなく、互いの心を尊重し、慈しむということを学ばされ、それをこの世に示し、天の御国を表していく・・そういう役割が与えられているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」"
創世記 3章15節
神である主は蛇=サタンに対し、のろいを宣告し、続いて言われたのが今日の箇所です。
おまえと女の間に敵意を置く・・。
サタンはそれ以来、人を神から引き離すための攻撃を休みなくし続けるのです。
そして「おまえの子孫」と「女の子孫」の間に敵意を置く・・。
それは、このときからずっと後に起きる「ある出来事」を示しています。
女の子孫とは、単数形でひとりの「人」を示しています。
そしてその人はサタンの頭を打つというのです。
しかしサタンも負けじと戦うのですが「彼のかかとを打つ」にとどまる・・という出来事。
これこそが、旧約聖書の中に出てくる、救い主イエス・キリストに関する最初の預言なんですね。
サタンは神の御子を十字架につけることに成功しました。しかしキリストはこのことを通して、永遠の救いのみわざを完成させてしまうのです。
結局サタンのキリスト暗殺計画は、「かかとを打つ」だけで終わってしまったのです。
しかしキリストは終わりの時に至ってサタンを永遠の火の中に投げ込む、すなわちサタンの頭を打って永遠に滅ぼしてしまうのです。(黙示録20:7-10)
この箇所以降旧約聖書の中には実に300箇所以上にわたって、来たるべきお方「キリスト」の預言が散りばめられているんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。"
創世記 3章14節
どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる・・。
この蛇の姿は、他の動物などと同様に、見たり触れたりできるものであるようなニュアンスで描かれています。
腹ばいで動き回るというのは、物音を立てずに獲物に近づく様を想起させます。
そして一度かみついたら、あとはじっくり時間をかけて飲み込んでいく・・。
私たちの心は「恐れ、心配」で支配されてしまうことがあります。
それは謂わば、サタンに「噛みつかれたとき」です。
そしてその恐れや心配は、私たちを絶望へと飲み込んでいくのです。
しかも蛇=サタンにとって、その獲物はいくら食べても腹を満たすことのない「ちり」のごとくで、それで満たされるわけではない。ただひたすらそれを食べ続けるのだというわけです。
サタンの下心の核心は「神の座にすわる」ということです。
これ以上の高慢はありません。
サタンはとにかく賢かったと記されています(3:1)が、高慢は、どんな賢さをも飲み込んでしまうんですね。
黙示録の中には、サタンの最終的な破滅についての預言があります。
高慢・・、それは破滅への道なのです。
キリストの十字架・・それは、私たちの内にもあるその高慢を、釘付けにしてくださった神の御子の御姿(みすがた)なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」"
創世記 3章13節
「人」は自分がしたことを女のせいにし、さらには神である主が自分にこの女を与えたといって、神のせいにまでします。
次に女は、自分がやったことを蛇のせいにします。
蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました・・。
では主である神に対して、彼らは何と言えば良かったのでしょうか。
それは、「私はあなたがするなと言われたことを破りました。私をあわれみ、お赦しください。」です。
でも気がついてみたら、それが言えない人になっていたのです。
すべての人はその罪の性質を、この禁断の実を食べた最初の人から、代々それを受け継いでいるのです。
イエス・キリストの十字架・・、それは自分ではどうしようもなく罪深い性質を持った私たちのために、神から与えられた救いそのものなのです。
そのようなあわれな私たちのために、御子イエス・キリストが死んでくださり、さらにその死の力を打ち破ってよみがえられたのです。
このキリストの内に、私たちのための「罪の性質の死」と「新しいいのちへのよみがえり」があるのです。
ただし、その救いを受け取るためには、しなければならないことがひとつあります。
それは、自分が神の前にどうしようもない者であることを認めるということです。
その時初めて人は、神の前にひれ伏す者となります。
実はこれが大きな恵みの場所なんですね。
御子イエス・キリストの十字架の恵みは、この場所でしか受け取ることができないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)