" 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。"
創世記 6章11~12節
神の前に堕落するとはどういうことでしょうか。
それは、神がそこにおられることを認めながら、神の喜ばれることとはかけ離れたことをするようになるということです。
暴虐とは辞書によれば、「むごいことをして人を苦しめること」とあります。
むごいことをして人を苦しめる者の心の内には、「神」の影も形もありません。
むごいことをするその人を支配するもの、、それこそがあのアダムを誘惑して神から引き離したサタンなんですね。
人々は、サタンの支配に身をゆだねるようになってしまったというわけです。
そして苦しめられる側の者は、生きていることに何の意味も見いだせず、ただ心の中は恐怖と怒りで満ちていたわけです。
恐怖、怒り・・これもサタンが人を支配するのに使う強力なツールです。
そこには「明るさ」の片鱗もありません。
そのサタンは、今のこの世においても、人々を常に「堕落」の方向に導いているのです。
そこにあるのが、怒り、憎しみ、ねたみ、殺意、そして高慢・・。
実は人は「光」を知らないのです。
イエス・キリスト・・この方こそが「まことの光」なのですから。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。"
創世記 6章9節
十代目のノアは、死を見ないで神のもとに召された七代目のエノク同様、「全き人」であり、「神とともに歩んだ」と記されています。
神である主はこのノアを、この後に起こる大きなさばきの時に救い出し、新しくされた地に生きる者として選ばれたわけです。
アダムからノアまで、「神の子たち」はすべて、生まれたときの父の年齢と、死んだ年齢が書かれています。
ですから、それをつなげていけば、だれが何歳の時に、だれが死んで、その時だれが生きているかということが分かります。
こうして見ると、驚くべきことにアダムが死んだその時点では、セツから9代目のレメクまで、全員がいたということが分かるんですね。
アダム誕生を0年とすると、9代目のレメクが生まれたのが874年で、その56年後にアダムは930歳で死んでいるのです。
アダムが知らないのはノアだけです。
アダムの子セツから9代目のレメクまでは、みなアダムから「神である主のこと」「エデンの園のこと」を聞くことが出来た人たちなのです。
さらにこのすべての人々は、ノアの洪水の時点では、すでに死んでいることがわかります。
要するに神の子たちは全員、洪水が起こる直前までには神のもとに召されているのです。
イエス・キリストを信じる者は、この「神の子たち」のように、終わりの時すなわち神のさばきの時にはすでに神のもと「天」に引き上げられているか、あるいはノアのように「さばき」のその時に「箱舟」すなわちイエス・キリストによって守られ、新天新地に導き入れられる者とされているのです・・。
ここにも救いの「型」がありましたね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
しかし、ノアは主の心にかなっていた。"
創世記 6章7~8節
結局世の中には悪が増大し、「人の心がみな、いつも悪に傾く」、そんな世界になってしまい(5節)、主は地上から人を消し去ることにされたというのです。
地上における人の悪が、いかに根深くいやしがたいものであったかということが想像されます。
しかし神はこれですべてをぶち壊して、「この世」を終わりにされようとしたわけではありませんでした。
アダムから始まりノアの時代までは1500年ほどありますから、当時の人口は想像が付かないほどに膨れ上がっていたはずです。
その中にたった一人、「主の心にかなっていた人」がいたというのです。
そして主は、この人を用いて「次の世」を作られる計画をされたというわけです。
主はノアの何に注目されたのでしょうか。
それは「主の心にかなっているかどうか」でした。
その根本姿勢はなんでしょうか。
それは「神を神として認める」ということです。
神として認めるということは、神の存在をはっきり認めるということであり、その神を「困った時の神頼み」というような神ではない、絶対者なるお方として認識するということです。
信仰とはそれだけなのです。
今の私たちの心の内についても、神である主はそのことを最大の関心事として見ておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

・・あなたは、自分の力ですべてをやろうとしてませんか・・
今週の「たいむ」【自分で抱えるな】
ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=zD6ga9-OyyY
God Bless You !
" 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。
主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。"
創世記 6章4~6節
この「神の子ら」については、#732で書いたとおり、アダム以来、信仰を守り続けた細い一本の線としてつながってきた人たち・・という解釈で読み進んでいきたいと思います。
となると、「神の子ら」たちは、信仰とかいうことにはこだわらずに、カインの子孫や、その他増え広がった人々の中から、とにかく美しい「人の娘」を選んだ・・という捉え方になっていきます。
そしてこれがネフィリムの話につがっているわけです。
・・そのころも以前も、その世の中は「勇士であり、名のある者たち」すなわちネフィリムによる「力によって支配される世界」だった・・と。
そしてその結果、地上に人の悪が増大し、人々の心に図ることがみな、いつも悪に傾くようになったというのです。
信仰を守るという細い一本の線は保たれながらも、世の中には悪が増大し、手の付けられない状態になった・・それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたというのです。(6節)
神の当初の創造のコンセプト・・それは「悪のない世界」だったんですね。
「リバイバル」ロイドジョンズ著/21章には、こんなことばがあります。
・・キリストの再臨、それはこの地上で野放しになっている悪が、わずかな痕跡も残されずに破壊される時なのです。・・
神は「悪のない世界」を今も目指しておられるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」"
創世記 6章3節
前回と同じ箇所の後半です。
神は人の齢を百二十年とされました。
しかし、突然人の寿命が120歳になってしまったということではなかったようです。
ノアは950歳まで生きています。
そしてそこから徐々に寿命は短くなり、ノアから10代目のアブラハムは175歳です。
そしてイサク180歳、ヤコブ147歳、、。そしてヤコブの子でエジプトで権力者となったヨセフに至って初めて110歳という、私たちにとっても身近な寿命・・すなわち120歳以下になるんですね。
さて今日は、「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない」という主のことばに注目してみまょう。
ここから分かることは、人が生きているのはそこに神の霊がとどまっているからだということです。
人は神が「いのちの息」を吹き込まれたので「生きる者」となりました。(2:7)
人が生きているのは、そこに神のいのちの息がとどまっているから。
そして人が死ぬのは、そこから神のいのちの息が去って行くから・・。
人は、神によって「生かされている」んですね。
今日はこのことを、改めて心に刻みたいと思うのです。
私たちは神によって「生かされている」のです。
そして私たちの死は、神がその齢を決められた結果なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」"
創世記 6章1~3節
5章はノアが500歳の時に三人の子を生んだというところで終わり、突然6章に入ります。
さて・・ということは、話を一旦元に戻しまして・・ということです。
ここに記されている「神の子ら」について、これは天使のことだとか、アダムから生まれたすべての人のことだとか、様々な解釈があるようです。
このシリーズではアダムからノアまでの「細い一本の系図」を「神の子」ということばで表現してきました。
これが考えられる解釈の三番目のものです。
それは神への信仰をはっきり持った人たちの流れです。
その「神の子ら」は、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻としたと記されているわけですが、それを人々の性的乱れを示唆するものだという解釈があります。
しかしこの文章だけでは、むしろ「美しい者を自分の妻とする」というのは、当たり前のことのようにも思われます。
ところが、「そこで主は」人の齢を百二十年に決められたというのです。
その理由は、「人は肉に過ぎない」ということでした。
それはすなわち、神の息によっていのちを与えられた「人」ではあるけど、その「肉」は120年もあれば十分にその結果を出す・・すなわち罪人の世界を形成していくということなのではないでしょうか。
そして結局、信仰をはっきり持ったわずかな「神の子ら」から生まれた多くの者たちも、洪水の時にはノア以外にはだれも信仰者としては残っていなかったというわけです。
神によるリセットが間近に迫ってきました。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」"
創世記 5章28~29節
アダムから数えて9代目のレメクはノアの父です。
レメクのこのことばは、ノアが生まれるまでの180年間、「この地」が主にのろわれた地であることを、いやというほど感じつつ生きてきたことをうかがわせます。
そして、このノアという子が「私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」と言ったのです。
それはまさに「預言」でした。
神の子としての細い一本の流れのほぼ最後のレメクも、神と共にあり、神の御心を慕い求めていた人であったことがわかります。
ですから「慰められる」というのは、他でもないノアの洪水による神のさばきのことだったわけです。
神に背を向ける人たち、それも周囲のほぼすべての人々が、レメクをどれだけ苦しめていたかがうかがわれます。
それは同時に、そんな中でレメクが「神の支配による御国」を仰ぎ見て歩んでいた人であることを示すものでもあります。
神とともに歩む者は、天の御国の輝きと喜びを知っているんですね。
私たちクリスチャンも、世の人々とはまったく異なる価値観の中に生き、たとえそれを認める人がひとりもいなかったとしても、「天の御国を仰ぎ見て歩む者」です。
私たちが本当に慰められるのは、終わりのとき、最後の最後の決着の時なんですね。
実にノアの洪水は、その最後の決着の時の型であるわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
エノクの全生涯は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。"
創世記 5章21~24節
前回は、アダムから十代目のノアまで細い一本の線でつながった系図の話でした。
その中のほとんどが900歳前後まで生きているのに、ひとりだけ365歳という短命?な人がいます。それがこのアダムから7代目のエノクです。
他の人々はみな最後に「〜の生涯は〜年であった。こうして彼は死んだ。」というかたちで書かれているのに対し、エノクだけは「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれているのです。
神の子としての細い一本の系図の中で、このエノクはさらに特別な存在だったようです。
エノクは神とともに歩んだ・・。
それは、エノクが常に神の御心を慕い求めながら、それに従って歩んだということです。
それでエノクは死を見なかったというのです。
余談ですが、聖書の中には、死を見ないで天に上げられた人がもう一人います。
それがあの預言者エリヤです。(列王記第二 2章参照)
私たちクリスチャンは、インマヌエルの主 (ともにいてくださる主)、すなわちイエス・キリストと「ともに歩む者」として召された者です。
そして恵みによって、死を通り越して主のもとに引き上げられる者とされたのです。
神が彼(エノク)を取られたので、彼はいなくなった・・。
これこそアダム以来、最初に出てくる「救いの型」なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)