" 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」"
創世記 4章6~7節 (前回と同じ箇所です)
カインには「自分は悪いことをしている」という認識はなかったようです。
どちらかというと、するべきことをしたのに認めてもらえなかったというような感覚で、怒って顔を伏せたのではないでしょうか。
ところが、神からは「良いことをしていない」という判定を受けてしまったのです。
前回は、主へのささげ物が形だけのものか、それとも心から主を愛して主にささげたのかという「心の問題」がそこにはあるということを書きました。
自分が主なる神をどのくらい愛しているか・・、それは改めて問われてみなければ、なかなか分からないことなのかもしれません。
ただ、私たちにはそれを判別するリトマス試験紙のようなものがあるのです。
それは「自分の罪がどれほど赦されたか」を測る試験紙です。
それこそがあの「主の十字架」です。
「私たちの罪」と「主の十字架」は、同じ重さなのです。
そしてそれほどの罪をあの十字架の上で主が負ってくださったことを知ったとき、人は身ををささげるほどに主を愛する者となるんですね。
多く赦された者が多く愛するようになるのです。(ルカ7:42参照)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)