" 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」 アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。"
創世記 12章7節
アブラ(ハ)ムは妻サライと甥のロト、そして自分のすべての財産と、ハランで得た人たちを伴ってカナンの地に向かって出発しました。(5節)
そして最初に出てくる地名が「シェケムの場所、モレの樫の木のところ」です。(6節)
このモレの樫の木のところというのは、旅人が集まる地であると同時に異教の礼拝の場でもありました。
そこで主はアブラムに現れて言われたというのが、今日の箇所です。
主はアブラ(ハ)ムに、最初の約束 (#757参照) に続いて二つ目の約束、すなわちイスラエルの民に与える地についての約束を明確にされたのです。
アブラ(ハ)ムはこの異教の地に主の祭壇を築きました。
さらにアブラ(ハ)ムは南下し、ベテルとアイの間、エルサレムの北方15㎞ほどの場所で、ここにも祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」とあります。(8節)
このシェケムからベテルの地域こそが、のちにイスラエルに与えられるカナンの全地のほぼ中央に当たる場所です。
神である主は、主を礼拝するアブラ(ハ)ムにしっかり「現れて」、これから後のことを告げつつ、共に歩んで行かれるんですね。
それは、私たちの歩みに密着し、共に歩んでくださる主イエス・キリストの型でもあるわけです。
私たちは実に、このアブラ(ハ)ムの歩みと同じ種類の歩みを体験する者とされているのです。
私たちもいつも主に目をとめ、主の御名をあがめつつ、日々歩んで行きたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。"
創世記 12章4節
テラがハランに定住してしまったことによって、アブラムは行くべきカナンへの道を閉ざされてしまいます。
そのどうにもならないときに、主のことばがアブラムに臨みました。
それでアブラ(ハ)ムは、テラとその家族に別れを告げ、甥のロトを伴い、カナンに向かって出発したというわけです。
このことを、一つの型として受け止めると、次のようになります。
みことばにより、これから歩むべき道のビジョンが与えられた・・。
みことばに従って歩み始めたら、突然それがストップされてしまい、それがいつまで続くか分からないという状況の中に置かれる。
動かずに待っていると、突然神のことばが響いてくる。
それにより、生活における様々な忖度(そんたく)や障害があるにもかかわらず、自分が行くべきところに行く決断の力が与えられる・・。
アブラムは75歳から新しい旅の出発をしました。
あなたの上にも、ご自分の器としてあなたを用いようとしている主のご計画があるんですね。
今必要なこと・・、それは祈りをもって熱心に主との関係を保つこと・・ただそれだけなのではないでしょうか。
「主の時」が、このあとに待っているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」"
創世記 12章1~3節
神である主はアブラムに、ここに定着した父テラの土地や一族のことにこだわらず、わたしが示していた地カナンに行きなさいと告げます。
そして主は、アブラムがカナンに行くことについての大きな意味を告げられました。
それはアブラムの子孫の、さらにその遥か先に至るまでの約束でした。
遥か先・・それは実に今の私たちにも関わることなのです。
大いなる国民・・、それは紛れもなくイスラエルという神の民のことです。
そして、「あなた(イスラエル)を祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」と・・。
それはイスラエルの神をまことの神であると信じる者は、イスラエル以外の者であってもその祝福がその者の上に及ぶという意味です。
そして地のすべての部族は、あなたによって祝福される・・。
イエス・キリストの時代に至るまで、イスラエルによって「地のすべての部族」が祝福されるということはありませんでした。
しかし、神の全体の計画は、イエス・キリストを通して、神からの良い知らせ「福音」が、イスラエルすなわちユダヤの民から発し、全世界に広がっていくというものであったわけです。
それは文字通り「地のすべての部族」にまででした。
このアブラ(ハ)ムに対する神の約束は、天地創造から世の終わりまでに関わる、神の祝福の約束だったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。"
創世記 11章31節
新約聖書「使徒の働き」の7章でステパノは、テラがまだウルにいたときに「わたしが示す地に行きなさい」と主が言われたのはアブラ(ハ)ムに対してだと言っています。
それでテラとその家族はカナンに向かって出発したのですが、ハランまで来ると、テラはそこに定住してしまったというわけです。
アブラ(ハ)ムはこのハランの地で、気が気ではなかったのではないでしょうか。
アブラ(ハ)ムはカナンに向かっていたのに、テラはハランに腰を落ち着けてしまったのです。
私たちも信仰生活において、神が導かれているのとはまったく違う状況に置かれてしまうことって、往々にしてあるのではないでしょうか。
先が見えない状況のアブラ(ハ)ムに、主はやっと言葉をかけられます。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と。(12:1)
ここから神の民の壮大な歴史が始まったのです。
主が示されているのなら、時が来れば主が必ず戸を開かれ、みことばをもって私たちを明確に導かれるのです。
今、何も起こらないように見えても・・、信仰を働かせましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ナホルはテラを生んでから百十九年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。"
創世記 11章25~26節
バベルの塔の記事のあとに出来事に出てくるのが、ノアの三人の息子の一人セムの歴史の詳しい系図です。(11:10〜)
そしてノアから十代目のテラが「アブラムとナホルとハランを生んだ」というのが、今日の箇所です。
このアブラムこそが、神の遠大な計画、イスラエル民族の大元になる人物でした。
アダム以来、ノアまでの系図と年齢はきっちりと記されています。
そして同じように、ノア以降の系図がこの11章には記されています。
ノアは950歳。セムが600歳。そしてそこから10代目に至るまで、どんどん寿命が縮まっていきます。
465、433、464、239、239、230、148歳・・これがナホルです。そしてテラは205歳、そしてアブラムは175歳で死にます。
神である主は、アダム以来、人が全地に増え広がっていったとき、「人の齢は百二十年にしよう」と言われました。
ところがそのことが実現するのに、実に二千年以上かかっていることがわかります。
主イエス・キリストは言われました。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ14:3)
それを聞いていた弟子たちは、今すぐにでも主が再び来られると思っていました。しかしそれが今や、2000年経とうとしています。
でも神は2000年かけて御心を実現される・・。
その型をここに見させられている思いがします。
神が言われたことは、必ず実現するんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

・・なくなることのない富・・
今週の「たいむ」【まことの富とは】
ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=TpI93CWAIn8
God Bless You !
" さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。"
創世記 11章7~9節
地に降りてきて、人の世に介入される主・・それがキリストです。
ここで主がなされたのは、神を認めず自らの力を誇ろうとする者が造り上げようとする世界に介入するということでした。
それで主は、「地の全面」に人々を散らし、地の果てまで言語の異なる民が存在する世界を造られました。
これも神の大きな計画の一コマですね。
その計画とは、ひとりの人を選び、そこから神の民イスラエルを起こし、そこから地の果てまでの全人類の救い主となるイエス・キリストを世に立たせるというものです。
主はそれでご自身の贖いのみわざを成し遂げられ、天にのぼられてから2000年以上、今も人が造り出す世を見守っておられるわけです。
しかし、最後には必ず大きな主の介入があると、聖書は明言しています。
それは終わりの時に、神の民を天に引き上げることと、世とそれを支配するサタンを滅ぼされるということです。
今世界には三つの「強国」がありますが、それらの国が保有する核兵器の量は、それで地球を何百回でも滅ぼすことのできるほどのものです。
私たちは身の回りが一応平穏ならば、それを大事にしたいし、それが平和だとも思えます。
しかし、今私たちは「邪悪で、主に対し甚だしく罪深い」世界に生きているのです。
私たちは、今のこの時を見分けなければならないのです。
聖書が教えていること、それは神に立ち返る者は救われて、次の世界につながるということなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」"
創世記 11章4節
10章ではノアの息子たちの系図が書かれ、そこから多くの民が分かれ出たことが記されています。そして11章では、あの有名なバベルの塔の話が出てきます。
1節には「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。」とあります。
ノアの三人の息子たちは当然同じことばを話し、2節には「人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。」とあります。
それは父に不敬の罪を犯したノアの息子であるハム、その孫のニムロデが王国を打ち立てた地域で、その中心がバベルと呼ばれる地でした。(10:8-10)
頂(いただき)が天に届く塔を建てて、名を上げる・・。
塔を建てる目的は、権力者が自らの力を不動のものとし、民が地の全面に散らないようにするという、完全な統治を目指すものでした。
強大な国は、自らを保ち、守ることに専念するという、罪人の基本的な性質をそのまま表わすような歩みをするんですね。
神はそれに対し、ことばを混乱させるという、私たちが思いもよならい方法をもってストップをかけられ、地の果てにまで民が行き渡るようにされたというのです。
このような光景・・、実は私たちも見ているような気がします。
権力がぶつかり合うところ・・そこでは言葉が通じなくなるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた。"
創世記 10章1節
ノアは洪水のあと350年生き、950歳で死にました。(9:29)
そして次の10章には、ノアの息子たちの系図が書かれています。
この系図は、ヤフェテから始まっています。
地域としては「島々の国民」と書かれているので地中海北岸とトルコから北西方面へと広がったとみられます。
このヤフェテから起こった民族には、興味深い名がいくつも出てきます。
それらはエゼキエル書やイザヤ書、また黙示録などの預言に出てくる、「終わりの時」に神に敵対する勢力として出てくる名なんですね。
次に出てくるのがハムの子らで、彼らは南方に広がっていきました。
ノアに呪われたカナンはこのハムの末っ子で、イスラエルに与えられた「約束の地」に住んでいたいくつもの民族になるのですが、彼らは神の民イスラエルによって滅ぼし尽くされてしまうのです。
それは彼らが「人間の淫らな性的欲望と結びついた、倫理的に最低」と評される宗教に支配されていて、それによって神の激しい怒りを招く国々となっていたからです。
そして最後にセムの子らの名が記されています。
このセムの子孫たちは箱舟の位置から東方に広がったとみられます。
このセムの長男アルパクシャデから9代目がアブラム、すなわち神が特別に選ばれた民族の最初の人につながっているのです。(11章参照)
そしてアブラムからイスラエル、ユダ、ダビデ、その流れでイエスを生んだマリアの夫ヨセフにつながっているのです。
神の壮大な計画が、ここでも見えてきますね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。
カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。"
創世記 9章20~23節
箱舟から出てきたノアの息子たちの名は、セム、ハム、ヤフェテ。(8節)
ハムは父の醜態を見て、父に覆いでも掛けて黙っていれば良いのに、出て行ってその様子をそのまま兄弟たちに告げました。
そこでセムとヤフェテは、父には目を向けないようにして父に覆いを掛けて、父の恥には触れないようにしました。
ハムのしたことは父への不敬という罪だったんですね。
息子たちは、父ノアが神に選ばれた特別な人であることを知っていました。
ハムには、神への畏(おそ)れというものがなかったようです。
しかし他の二人の兄弟はこの出来事の上にも、そこにおられる主を見ていたのです。
結果、セムとヤフェテは、ノアから祝福を受けるのです。(26-27節)
ハムが見た光景は、突然出くわした予想もしなかった出来事でした。
しかしそこに神はおられるのです。
日常生活のすべてのことの上に、そこにおられる主を覚える・・。
そこに大いなる祝福の入り口があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)