" わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。"
創世記 17章6節
アブラハムから生まれる「神の国民」はひとつ、イスラエルです。
しかし、長子イサクの前に女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルからは12部族が、そしてイサクの長子エサウからもエドム人が生まれています。
このようにアブラハムからは確かにいくつもの国民が誕生しています。
それに続いて「王たち」ということばがあります。
「王たち」とは、メシヤの家系を示唆することばで、マタイの福音書のはじめには「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」が最初に出て来ますが、その中だけでも「王たち」が19人います。
王たちが出るというのは、非常に確率の低いことですが、主はそれを明確に語られたのです。
それは神のご計画により、世は動いているということを示しているわけです。
そして今の世も、そのように世界は動いているとなると、うかうかしていられないという気持ちにさせられます。
聖書の終末(世の終わり)に関する記事からすれば、エルサレムには「イスラエルの神殿」がなければなりません。
しかし1948年にイスラエルという国が突如として現れるまでは、そんなことはあり得ないことでした。
ただし今の時点では、その神殿があるべきところには、イスラムのモスクが建っています。
ならば次には、ここに主の神殿が建つという驚くべき出来事があるはずだということになります。
今私たちは、まさに主のことばのまっただ中に生きているんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

罪はやめられない・・
今週の「たいむ」は【信じてから新しくなる】 です。
どうぞご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=aNCnr5fYGnM
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #779
【今の時を見分ける知識】 アブラムへの約束,その6-1 創世記119
"「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。"
創世記 17章4~5節
神である主はアブラムの前に現れました。(1節)
そして契約として、主は多くのことを語り始められました。
まず、アブラムの名は今後アブラハムとなる・・と。
人の名が変えられる・・、それは新しい局面に入るということです。
このあと妻のサライにも「サラ」という名が与えられます。
神である主はこれから起きることを克明に語られるわけですが、アブラハムにとっては現実味がありません。
なぜなら、そのために必要な世継ぎの子がいないからです。
しかしこのあと、バタバタと様々な出来事が起こり始めます。
実に、新しい局面に入る直前に、しかもその気配もない時点で、主は前もってアブラハムに語られたのです。
私たちには神のことば「聖書」が与えられています。
そこには「これから起きること」が実に克明に記されています。
神である主がアブラハムに語られたのはこれで6回目ですが、私たちには旧約聖書から、イエス様の言葉から、使徒たちのことばから、ヨハネに与えられた黙視から・・、遥かに多くのことが「これから起きること」として記されています。
今、私たちには「主の契約」が語られているのです。
それは新しい契約・・すなわちイエス・キリストによる救いの契約、そして再び来られるという主の約束です。
この主の約束が、今後バタバタと起こる始めるというわけです。
今の時を見分ける知識・・、それは聖書に記されているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」"
創世記 17章1節
アブラムの女奴隷ハガルがイシュマエルを生んでから13年後、アブラムが99歳のとき、主は再びアブラムに現れて、契約のことばを伝えます。
主はその始めに、ご自身が全能の神であることを明言され、「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と言われました。
イエス様も山上の説教の中で「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」と言われています。 (マタイ5:48)
この山上の垂訓(すいくん)と言われる説教では、およそ私たちができそうもないことばかりがいくつも書かれています。
そしてその上で、「完全でありなさい」というのです。
もし私たちがこれをそのまま受け止めて、それを実行しようとするなら、自分の内にはそんな力はどこにもないことを思い知らさせて、とてもみじめな思いになるのではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、このアブラム同様、主が共にいて下さっている者です。
そんな私たちには、実はいつも二つの道が置かれているんですね。
それは、自分の能力に注目するか、それとも共におられる主の力に注目するか・・ということです。
全き者の道とは、このどちらだと思いますか。
勿論、後者ですよね。
私たちが「いつも主に目をとめること」を学ぶなら、そのときこそが「全き者」に一歩近づくときなのです。
なぜなら、主「が」完全なお方なのですから・・。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。"
創世記 16章13節
「彼女」とは、アブラ(ハ)ムの妻サライから逃げてきた女奴隷ハガルです。
ハガルが荒野の泉のほとりに来て、途方に暮れているときに、御使いが来て、彼女に語りかけます。
それは、身を低くして女主人サライのもとに帰るべきこと、今身ごもっている子から出る子孫への祝福、そしてその将来のこと、そしてその子に付けるべき名までも、その御使いはハガルに告げたのです。(6-12節)
エル・ロイ・・それは「私を見てくださる神」という意味です。
女奴隷ハガルは主である神に出会ったんですね。
ハガルは、主人アブラムの神に助けを求めて叫んだわけではありませんでした。7節にはこのように書かれています。
" 主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。"
神の御使いがハガルを探していたのです。
まことの神をあがめ信じて歩む者の上におられる神は、その家族のすべての者を覚えておられる方であるということが、この記事から見ることができます。
一人の者が神に近づくなら、その祝福は家族すべての者の上にあるのです。
そして主は、その家族のすべての者が主に立ち返ることを望んでおられのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。"
創世記 16章4節
アブラムは子孫の約束を主からいただいたとは言え、子がないままでした。
そこで妻のサライは、こともあろうに女奴隷ハガルをアブラムに妻として与え、その子を自分の子としようと考えたのです。この時アブラムは85歳。(2-3節)
アブラムはハガルを妻として迎え、ハガルは身ごもります。
そのとき、ハガルは「自分の女主人を軽く見るようになった」・・これが今日の箇所です。
さらにハガルはサライに対して横暴に振る舞うようになったというのです。(5節)
でもよく考えれば、これはサライのお膳立てによって実現したことなのに、ハガルは、自分が身ごもったことで「サライに勝った」と思ってしまったんですね。
結局ハガルはサライの怒りを買い、追い出されてしまうのです。(6-9節)
ハガルは身ごもったそのからだで荒野に逃げ、泉のほとりで呆然としていた・・、そこに主の使いが現れます。
その主の使いのことば・・それは「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」でした。
そして、主の使いは生まれてくるハガルの子とその子孫の祝福を約束されたのです。(10-11節)
私たちは祝福を得たときに、ともすれば勘違いしてしまうことが往々にしてあるんですね。
自分の内に何か良いところがあったから、この祝福を得たのだと・・。
しかしその考えは決して良いものをもたらさないということを、このハガルの話は教えてくれます。
祝福があったら・・、身を低くしなければならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。"
創世記 15章17節
アブラ(ハ)ムは、約束のしるしを見たいと神である主に申し上げました。
そのときに主は、いくつかの動物を指定して用意するように言われました。
これに対しアブラムは、動物を切り裂いて真っ二つにし、そこを通れるように間を開けて並べたのです。(8-10節)
それは、約束を果たす誓いのためにその間を通り過ぎるという、当時当たり前のように行われていた儀式のためでした。
アブラムはその儀式の用意をし、実に主がそれに応えてくださるのを待ったのです。
そのうちにアブラムは深い眠りにつき、その中で主は後の子孫に起こることをアブラムに語られました。(11-16節)
そして目が覚めたら、すでに日も沈み、辺りは暗くなっていました。
そのとき・・、これが今日の箇所です。
「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」・・、それはことばでは言い尽くせない主の栄光を、敢えてことばで言い表わそうとしたものです。
なんと、主ご自身がそこを通り、その確証をここに示してくださったのです。
そして主はアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。」と、直接語って約束をされたのです。(18節)
私たちクリスチャンは、この同じ神との交流を許されている者なんですね。
私たちは実に、神と語り会いながら、天の御国が用意されている者であることを確かめつつ、この世の旅路を歩んでいく者とされているのです。
主イエス・キリストは、共に歩んでくださり、いつでも声をかけることのできるお方であり、それに答えてくださる生ける主なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は【苦しみにあうこと】 ・・それは恵みの入り口・・
です。
どうぞご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=RX-Ofu-1_Gg
God Bless You !
" そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」"
創世記 15章16節
主はアブラ(ハ)ムに言われました。
あなたの子孫はエジプトで奴隷となり、わたしがそこからあなたがたを救い出し、再びこの地に連れ戻すが、そのときまでにはそれ相当の年月がある・・、それは「アモリ人の咎(とが)が、そのときまで満ちることがないから」だと・・、それが今日の箇所です。
アモリ人とは、カナンの地にいたパレスチナ住民の総称です。
暴虐に満ちていた民がノアの洪水で滅ぼされたときのように、またソドムの町が悪のゆえに天からの火で滅ぼされたときのように、「アモリ人の咎が満ちるとき」があるというのです。
そのときを主はご存じで、そのために主はイスラエルを400年エジプトにとどまらせ、エジプトを出たあとも荒野で40年もとどまらせ、そしてこの神の民イスラエルの手によってアモリ人は滅ぼし尽くされる・・これが主のご計画だったというわけです。
一方イスラエルの民が荒野に40年もとどまらなければならなかったそのわけは、彼らの不信の罪のためでした。
すべてのことが神の御手の中で動いているということを、ここでは見させられているように思います。
イスラエルがしたことは、侵略と殺戮です。
私たちはこのことを「絶対的な主権を持たれる神の計画」というはかりの中で見ないことには、とても消化できることではないような気がします。
世の始めから終わりまでの神のご計画・・、それは主がご自身の聖さに従って、最後にはこの世の悪を完全に一掃するという計画です。
人はこの神の前にひれ伏し、神のあわれみと救いの道を、ただ受け取るしかない・・、そんなことを今日も思わされます。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。"
創世記 15章12節
アブラ(ハ)ムは、主が用意せよと言われた動物たちを屠(ほふ)って真っ二つにし、それを向かい合わせに置き、その間を主が通られるのを待ちました。(#772参照)
そして飛んでくる猛禽を追い払うのに疲れ果て、深い眠りについてしまったアブラムに「大いなる暗闇の恐怖」が襲います。
そのとき主はアブラムに、これから起こることをはっきりと語られたのです。
それはアブラムの子孫の、実に700年先までの行く末についてでした。
アブラムの子孫は、この地からエジプトに移り寄留者となり、果ては奴隷となるが、主はその民を導き出してこの地に帰ってくる・・と。(13-16節)
大いなる暗闇の恐怖とは、エジプトにおける恐怖と暗黒の時代を示唆しているようです。
主は先のことを克明に私たちに告げられるお方なんですね。
聖書には、これから後に起こることもはっきりと記されているのです。
それは世の終わりの時の大艱難時代、すなわち大いなる暗闇の恐怖の時代です。
しかしそれは、私たちに恐怖を与えるためではなく、そこから救い出して永遠の安息の中に入らせるために書かれていることなんですね。
主はアブラムに、幸せな晩年を過ごすことを約束されました。(15節)
聖書は、私たちが幸せな地上の生活、更には永遠のいのちの中に生きるためのことが記されているのです。
暗闇の恐怖の中に、救いと光がある・・。
これが聖書のメッセージの「型」なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)