" ロトはツォアルから上って、二人の娘と一緒に、山の上に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼と二人の娘は洞穴(ほらあな)の中に住んだ。"
創世記 19章30節
神である主はロトに、命がけで山に向かって逃げよと言いました。(17節)
しかしロトは山へ行くのはちょっと無理だと言ったのです。
山とはアブラハムがいる台地の上の方です。
そして低地にはソドムやゴモラという、腐敗した町々がありました。
ツォアルは低地にありながらも、本当に小さな町でした。
ロトは、ここだったら大丈夫だと思ったのかも知れません。
しかしロトは結局、ツォアルに住むのを恐れ、彼らから身を隠して洞穴の中に住んだというのです。
ロトは、ツォアルという小さな町も、そこがやはり恐ろしいところであることに気付いたようです。低地の町は、大きかろうが小さかろうが、そこは腐敗していたのです。
ロトはやっと、それらの悪から抜け出すという意識を持てたようです。
では私たちも、悪がはびこる「町」から逃げ出して、洞穴生活をするべきなのでしょうか。
いいえ。私たちクリスチャンには、この洞穴に匹敵する「隠れ場」が与えられているのです。
" 身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。" (サムエル記 第二 22:3-4)
しかも私たちは、この守りの中で歩みながらさらに、「町の人々」に対しては義務があるんですね。
それは彼らに、この「隠れ場に逃げ込みなさい」と叫ぶ義務です。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。"
創世記 19章29節
ロトと二人の娘は命からがら小さな町「ツォアル」にたどり着きます。
翌日アブラハムが台地の上から低地を見ると、なんと「かまどの煙のように、その地から煙が立ち上っていた」とあります。(28節)
この29節では、「神はアブラハムを覚えておられた」ので「ロトをその滅びの中から逃れるようにされた」と言っています。
ロトが救われたのは、アブラハムが神である主に食い下がるようにして「正しい者の救出」を願ったからだと、ここでは言っているわけです。(創世記18:17-33)
ここで言う「正しい者」とは、神を認めつつもその弱さを身に帯び、神を悲しませることも多々ある・・そんな者であっても、ただ主を信じて見上げて歩む者・・、そういう者のことを言っているんですね。
ロトはソドムという、悪が蔓延する町に住むようなことをしてしまう人でした。
そのロトが救われたのは、アブラハムのあの執拗な願いを主が聞かれたからだというわけです。
アブラハムが主に願ったその願い・・それは祈りで言うなら「とりなしの祈り」です。
私たちは、偶然神に出会ったのではなくて、いつもその背後にとりなしの祈りがあって、今の私たちがいるのだということを、折に触れ思い起こしたいものです。
とりなしの祈り・・それは滅びの中から人々を救い出す、他の何にも増して大きな働きなのです。
主がその祈りに応えてくださるのですから・・。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。"
創世記 19章26節
御使いはロトたちにあらかじめ忠告していました。
「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」と。(17節)
しかしロトの妻は、今までの生活、世のもの、それらがどうなってしまうのかということに心を奪われ、うしろを振り返って見てしまいました。
そうしたらその瞬間、塩の柱になってしまったというのです。
このことを今の私たちの信仰生活に当てはめて考えるとそれは、もしあなたの目が、神の救いに入れられたということよりも、この世に目が向いているなら、その信仰はそのまま固まり「塩の柱」になって、身動きの取れない状態になってしまいますよ・・と言われているようです。
しかしよくよく自分を振り返ると、私たちはしょっちゅう「振り返って」世のことを、また過去を見ながら信仰生活を歩んでいることに気付かされます。
ではそんな私たちは、どうすれば良いのでしょうか。
この塩の柱の話を教訓とするならば、それは、自分が救いに入れられた者であることを常に覚え、行く先の方を絶えず見ながら歩みなさい、ということになるのではないでしょうか。
私たちは見ているその方向によって、光の方に進んでいくか、それとも後ろを振り向いて身動きが取れなくなるかが決まるのだと言っているわけです。
塩の柱の話・・それは、神が私たち信仰者に与えて下さった、とても具体的な警告なのではないでしょうか。
私たちはもう、うしろを振り返らなくても良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"そのとき、主は硫黄と火を、天から、主のもとからソドムとゴモラの上に降らせられた。
こうして主は、これらの町々と低地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされた。"
創世記 19章24~25節
ロトが主に願った「小さな町」ツォアルに着くなり(23節)、主は天から・・、これが今日の箇所です。
この出来事を、その地域の火山活動であるとか、地震による地殻変動によるものだとか、自然現象によってによって説明しようとする向きもあります。
しかしそのような試みに、一体どのような意味があるのでしょうか。
聖書には、神が天地を造られ、神の息によって人は生きるものとなったと書かれているのです。
ソドムとゴモラの上に降った硫黄と火は、「主が」降らせた。
そしてそれは「天から」降ったと書いてあるのです。
聖書にある様々な奇跡の記事を、自然現象などによって説明しようとする試みは、聖書の記事の主旨から私たちを遠ざけていきます。
聖書の主旨とは、神「が」すべてをなされているということです。
自然現象そのものも、神の御手の中にあり、すべてのことは神の御手の中で起きていることなのです。
主が天地万物を創造し、支配され、時も支配され、その先までも支配されている・・。
これが聖書の主旨です。
" すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。" (ローマ人への手紙11:36)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを受け入れ、あなたの言うあの町を滅ぼさない。
急いであそこへ逃れなさい。あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。"
創世記 19章21~22節
ロトはあろうことか、山に逃げなさいと言われた主に対し、注文を付けました。
体力的に無理なので、山ではなくてこっちの小さな町にしてください・・と。(19-20節)
それに対して、主が言われたのが今日の箇所です。
「正しい人」としてソドムのさばきから救い出されたロトですが、彼にはどうも、神よりも自分の思いを優先させるという傾向があったようです。
山に行けと言われたのに・・。
またロトは、家畜を飼う者であったのに、わざわざソドムという堕落の町に家を構えて住むようなことをしていました。
神がこうせよと言われるのに、それを知りながら自分の心が好む方に向かおうとする・・。
これを書いている私自身にも、痛いほど身に覚えがあります。
しかし主はそんな私たちを、私たちが想像する以上の忍耐をもって導いて下さっているようです。
わたしはこのことでもあなたの願いを受け入れ・・と、主はロトの申し出を聞かれました。
私たちは本当に不完全で、いつまでたっても忍耐してもらわなければならないような者です。
主はそんな私たちに寄りそってくださりながら、その歩みを導いて下さっているのをここでは見させられているようです。
あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできない・・。
主は私たちの弱さをご存じで、そんな私たちをいつも大きな慈愛で包んで下さり、あくまでも私たちに真実を尽くして下さるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」"
創世記 19章17節
ロトと家族を連れ出した御使いは、とにかく全力で逃げなさいとロトに告げました。
滅ぼされてしまう・・。これをもし、終わりの時が近づいているという、今の私たちに対することばとして受け取るとき、それは特別な意味をもって迫ってきます。
命がけで逃げなさい・・、それは命がかかっていることを示しています。
信仰は、趣味の領域ではないのです。
今この時、逃げ場所を知っている私たちは、命がけで多くの人々を連れて逃げよと言われているのではないでしょうか。
うしろを振り返ってはいけない・・、それは今までの生活に未練を持つなということです。
今は、信仰,みことば,祈りなどの神の武具をもって「非常時に備えるとき」だというのです。(エベソ6:10-19参照)
低地のどこにも立ち止まってはならない・・、低地とは、ロトが住んでいたところすなわち、世の中とのしがらみを表わします。
福音が招いている世界は、今私たちが生きるこの世とはおよそ次元が違うところの話なんですね。
世の中のしがらみと駆け引きをしている場合ではないというのです。
旧約聖書は、「終わりの時」と「人々の救いの時」を示す型に満ちあふれています。
このソドムの話もそのひとつなんですね。
そうでないと滅ぼされてしまうから・・。
これは「脅し」ではなく、救出のために語られている天からの声なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人たちは彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。"
創世記 19章16節
ソドムから逃げることになったのは結局、ロトと妻、そして二人の娘だけでした。
しかし彼らは、今にもソドムが滅ぼされるというときに「ためらっていた」というのです。
このソドムが滅ぼされるなんていうことがあり得るのかという思いがあったのかも知れません。またここから逃げるということは、家も財産も捨てるということですから、ためらうのも当然といえば当然です。
そんなことを考えている彼らを、二人の御使いは手をつかんで力尽くで連れ出したというのです。
ここではそれを「彼に対する主のあわれみによることである」と言っています。
私たちが信仰を持った時のことを思い出すと、苦境におかれて、そこで自分の無力を見せつけられて初めて「神」という存在に目を向けたとか、何か聖霊の促しを強く感じて神に目を向けた、また分からないけど教会に足が向いたという人・・様々です。
しかしそれは、神が強引にその人の手を引っ張って、滅びから救い出されたということに他なりません。
そしてそれは「主のあわれみによる」のだというのです。
どうしてあなたが選ばれたのでしょうか。
分かりません。主があなたに目をとめられたのです。
主があなたを、滅びから救い出そうと決められたのです。
しかしひとつ考えられること・・それは、あなたのために祈っていた人がいたということです。
あなたは恵みによって、あわれみによって、主の力によって救われたのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その人たちはロトに言った。「ほかにだれか、ここに身内の者がいますか。あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。"
創世記 19章12節
ロトの客人をレイプしようとして来たソドムの男たちは、御使いによって目つぶしを食らい、「戸口を見つけることができなくて疲れ果てた」とあります。(10-11節)
その時、御使いたちがロトに言った言葉が今日の箇所です。
ロトは御使いに促され、二人の娘の婿たちにソドムが滅ぼされることを伝えるために出て行きました。
主はロトの「身内の者」にも目をとめられているのだということが、今日の箇所から分かります。
主は、救われた者のその家族にも、その目を向けられているのです。
夫、妻、子、親、そして親戚・・。
家族の中から最初に救われたなら、その存在は家族には理解できない存在となります。
なぜなら、神の御霊がその人に宿るようになったからです。
要するに家族にとって私たちは、「理解のできない人」になったのです。
その家族に自分の信仰の話をする・・、そこには非常な困難を感じます。
しかし神の御心は家族の上にもあるんですね。
そのために私たちができること・・、それは先ず、家族の救いのために祈ることなのではないでしょうか。
祈りの力が、あなたの上に与えられますように。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)