
今週の「たいむ」は・・
【汚れし心に住まわれるお方】 です。
汚れた心に神は住まわれ、そこが聖められていく・・。
https://www.youtube.com/watch?v=VXTrmHS2zLM
今年一年、GraceCafeたいむをご覧くださり、ありがとうございました。
God Bless You !
" こうして、この畑地とその中にある洞穴(ほらあな)は、ヒッタイト人たちの手から離れて、私有の墓地としてアブラハムの所有となった。"
創世記 23章20節
主がアブラハムに、ひとり子イサクをささげよと言われたあの出来事の後、サラは127歳で死にます。(1節)
このときアブラハムは、自分の所有する土地を全く持たない「寄留者」で、ヘブロン(エルサレム南方30㎞) という地にいました。
そこでアブラハムはこのヘブロンにサラを葬る墓のための土地を得たいと思い、その土地のヒッタイト人に交渉し、「マクペラの洞穴(ほらあな)」を買い取ることになります。(3-18節)
アブラハムがその生涯で所有した土地は、後にも先にもこのサラのための墓地であるマクペラの洞穴だけでした。
アブラハムは周辺の人々からは「あなたは私たちの間で神のつかさです」と、皆が認めるほどの大きな存在となっていました(6節) が、アブラハムには自分の領土を得て、その地位を確実なものとしようという考えは微塵(みじん)もなかったようです。
アブラハムが見ていたのはただ「神の約束」だけだったことがわかります。
それは、アブラハムの子孫の祝福と、そこから出るメシヤ(まことの王)による地の果ての民までの祝福の約束です。
これはまさに、私たちクリスチャンの地上の歩みの「型」に他なりません。
私たちは、地上に宝を蓄えることではなく、その宝は与えるために使い、死の先にある永遠の約束を喜び、歌いながらこの地上を歩む者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。"
創世記 22章16~17節
アブラハムとその子孫に対する主の祝福の約束はこれが七回目で、しかも最後の約束となります。
あなたの子孫は敵の門を勝ち取る・・。
敵とは神への敵対者、サタンです。
サタンの門・・それはサタンの切り札である「死」です。
その死を勝ち取るというのは、まさに御子イエス・キリストの十字架の死からの復活を意味しているわけです。
主はこの七回目の約束にして初めて、メシヤの登場まで言及されたわけです。
そしてその約束は「あなた(アブラハム)が自分のひとり子を惜しまなかったので」というのがその理由でした。
これは父なる神が、ご自分のひとり子のいのちを惜しまずに人々に与えてくださったことと完全に重なっています。
アブラハムに対するあの考えられない主の試練は、メシヤをそこから起こすということのための特別な試練だったということがわかります。
そしてこの救い主が起こされるというその約束は、アブラハムの子孫が空の星、海辺の砂のように大いに増やすという約束と並んで語られているのです。
ですがそれはまだ実現していません。
結局この約束は、最終的に起こされる天の御国の神の民のことを指しているということになります。
神である主は、ここでも神の計画の全体、すなわち最終目標までを語られているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。"
創世記 22章13~14節
アブラハムは主のテストに合格しました。合格の理由は、主への愛と信頼です。
それは、その神を信じる者に対して、神は「死さえも含めて良きことをなされるお方」なのだという信仰です。
この信仰のテストをクリアしたアブラムが目を上げてみると、そこに一匹の雄羊が角を藪に引っかけてそこで暴れていました。
礼拝に必要なささげ物が、そこに用意されていたのです。
アブラハムは、その場所に名を付けました。
アドナイ・イルエ・・それは「主が備えてくださる」という意味です。
私たちもこの同じ主を信じる者です。
ならば私たちも、この神である主イエス・キリストを心から愛し、本当に信じて従うならば、たとえ「死の陰(かげ)の谷」(詩篇23:4) を歩むことがあったとしても、そこには必要な全てが備えられると信じて良い、ということです。
主の山・・それは、主がおられるその場所です。
私たちにとっての「主の山」・・、それは一体どこにあるのでしょうか。
私たちクリスチャンには聖霊が内に住まわれて、いつも共にいてくださっています。
ですからこの「内に住まわれる聖霊」に目をとめるなら、私たちは「主の山」に立っているのです。
そしてそのときには「主が」、全てを備えてくださるというのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」"
創世記 22章12節 (前回と同じ箇所です)
自分のひとり子さえ惜しむことなく・・ということばを聞くと、私たちクリスチャンにはピンと来ることがあります。
それは私たちの罪の代償として、父なる神がご自分の御子のいのちを私たちのために与えてくださったという事実・・。
これは神の私たちに対する徹底的な愛の表れです。
一方アブラハムの信仰は、最も大切であり神の祝福の約束のためには欠かすことのできないひとり子イサク・・それよりも、神のことばの方が上にあったという信仰です。
即ち徹底的な神への愛と信頼を表わすものだったわけです。
このあとの流れは、アブラハムが目を上げて見ると一匹の雄羊がそこに与えられ、それで全焼のささげ物をすることができ、そして主からのアブラハムへの最後の祝福の宣言がなされ、神の祝福のことばは、これ以後はもう繰り返されることはありませんでした。(13-18節)
即ち祝福の確定です。
私たちが神の赦し,惠み,祝福を実際に手にするその条件は、「信仰」なんですね。
信仰・・その意味は、あなたと共にいてくださる神である主イエス・キリストを「本当に信じる」ということなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」"
創世記 22章12節
主は、アブラハムが「ひとり子をささげよ」というその命令に本当に従うということを確認した時点で、それをストップさせます。
主はなんのためにアブラハムをこのような試練に遭わせたのでしょうか。
今日のみことばから考えてみると、それは「神を恐れているかどうか」を確認するためであったということがわかります。
神は愛なる神、アバ即ちパパと呼べる存在、私たちとともにいて決して見放さず見捨てないお方・・。
そのような認識は、クリスチャンが持つべき認識として教えられます。
しかし「恐れるべきお方」という認識は、比較的希薄なのではないでしょうか。
では「愛なる神」と「恐れるべき神」・・その両者はどのように一致するのでしょうか。
恐れるべき対象・・それは「絶対者」ともいうべきお方です。
即ちこの方が言われることは全て「絶対」である、という存在です。
この絶対者であるお方が私たちに、あなた方を滅びから救い出して、永遠の御国の民とする・・と言われているのです。
即ち、絶対者が祝福の宣言をしておられるのです。
私たちはこの神である主イエス・キリストを、その言われたことを全て確実に行われる方として「恐れなければ」ならないのです。
そこには、目に見えるどんな祝福をも遥かに凌駕(りょうが)した、絶対者によって保証されたまことの祝福があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」"
創世記 22章11節
アブラハムは神である主が言われたとおり、息子イサクをささげ物とするために縄で縛り、そして祭壇の薪(たきぎ)の上に彼を置きました。
そしていよいよナイフをとってイサクを屠(ほふ)ろうとしたとき、即ち切り裂こうとしたとき、主の使いが天からアブラハムに呼びかけられました。
息子を屠るという異常事態のさなか、天から御使いの声がして、それに対してアブラハムは「はい、ここにおります」と答えたというのです。
それはむしろ、神に対する最大限の抗議の声のようにも聞こえます。
はい、私ははあなたのことを分かっています。
あなたが私に命じられたから、私はこれを行っているのです・・と。
それは、人が一旦神に従うという行動に出たら、「主よ、このことの責任は全てあなたにありますからね」という信仰です。
このあと、神の御使いはアブラハムにストップをかけます。
アブラハムは「全部」を神にお任(まか)せしていたことがわかります。
「はい、ここにおります」とは、そういう意味なのではないでしょうか。
それは人が神のことばに従って歩みを始めるときの、その歩み方を教えてくれているようです。
神の召しに従って宣教師として未開の地の人食い人種のところに赴く人、神に仕えるために今までしてきた仕事を捨てて新しい一歩を踏み出す人、もっと身近なところで、人間関係の中で絶対にできないと思っていたことについて、神に従おうとする人・・。
その人の歩みはみな、「はい、ここにおります」という歩みなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。"
創世記 22章9節
アブラハムはいよいよ息子を縛り、薪(たきぎ)の上に載せ、その体をナイフで引き裂こうとしたのです。
このアブラハムの信仰について、ヘブル人への手紙11:18-19 には次のように書かれています。
" 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。"
アブラハムは自分から出る子孫の祝福を約束されていました。と同時に彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えていた」というのです。
それが「イサクを死者の中から取り戻した」ということであり、実際にそのようになったのだというわけです。(10-12節)
私たちは、死の先に永遠のいのちが与えられていることを保証された者です。
しかしその約束を本当に具体的に受け取っているのと、地上の生活に執着を持ちつつも「もし死んでも」永遠のいのちが与えられているからとか思っているのとでは、その歩みにおける選択はまったく異なるものとなりそうです。
私たちがすでに与えられている赦しと永遠のいのち・・、
私たちは実際にそれを、どのように受け止めているのでしょうか。
自分の「信仰」を一度立ち止まって、振り返って見てみたいものです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)