" そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」"
創世記 22章11節
アブラハムは神である主が言われたとおり、息子イサクをささげ物とするために縄で縛り、そして祭壇の薪(たきぎ)の上に彼を置きました。
そしていよいよナイフをとってイサクを屠(ほふ)ろうとしたとき、即ち切り裂こうとしたとき、主の使いが天からアブラハムに呼びかけられました。
息子を屠るという異常事態のさなか、天から御使いの声がして、それに対してアブラハムは「はい、ここにおります」と答えたというのです。
それはむしろ、神に対する最大限の抗議の声のようにも聞こえます。
はい、私ははあなたのことを分かっています。
あなたが私に命じられたから、私はこれを行っているのです・・と。
それは、人が一旦神に従うという行動に出たら、「主よ、このことの責任は全てあなたにありますからね」という信仰です。
このあと、神の御使いはアブラハムにストップをかけます。
アブラハムは「全部」を神にお任(まか)せしていたことがわかります。
「はい、ここにおります」とは、そういう意味なのではないでしょうか。
それは人が神のことばに従って歩みを始めるときの、その歩み方を教えてくれているようです。
神の召しに従って宣教師として未開の地の人食い人種のところに赴く人、神に仕えるために今までしてきた仕事を捨てて新しい一歩を踏み出す人、もっと身近なところで、人間関係の中で絶対にできないと思っていたことについて、神に従おうとする人・・。
その人の歩みはみな、「はい、ここにおります」という歩みなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)