" アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」
そこでアビメレクは、すべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」"
創世記 26章10~11節
イサクがいたところに飢饉が起こり、イサクはペリシテ人の王アビメレクのもとに行って、そこに寄留しました。(1節)
しかしここでイサクは、美しい妻リベカの故に自分が殺されるのではないかと恐れ、「あれは自分の妹です」と偽って暮らしていました。
ところが、それが嘘であることが王アビメレクに知れてしまい、そのとき王がイサクに言った言葉・・それが今日の箇所です。
イサクは父のアブラハムと同様、妻に姦淫の罪を犯させることを知りながら、ただ自分の身を守るだけのために人々を欺いていたわけです。
それはその人の心の弱さの露呈以外の何物でもありません。
ところがアビメレクはイサクを責めこそしましたが、結局はイサクを完全に守るためのお墨付きを与える結果となったのです。
この出来事を見て思い起こすみことばがあります。
" 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。" (ローマ人への手紙 8:28)
私たちは弱さ、愚かさを身に帯びています。
しかし主は、そのことをも用いて益としてくださるというのです。
主を知った者は、もう自分にこだわる必要はないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟(おきて)とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」"
創世記 26章5節
神である主はイサクに言われました。
わたしは・・あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす・・。
そして最後に言われたのが、今日の箇所です。
主への務め・・それは、主の「命令」と「掟」と「おしえ」を守ることだというのです。
主の命令・・。イエス様が私たちに語られた二つの命令は、主の命令のすべてを網羅(もうら)するのだとイエス様は言われました。(マタイ22:37-40)
その第一は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
そして第二は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というものです。
次に「掟」という言葉を見ると、次のみことばを思い出します。
" 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。" (詩篇119:71)
そのおきてとは、ひとことで言えば、苦しみや試みは、主の愛を知るために与えられるという「主のおきて」です。
「教え」・・それは、主から直接語られることば・・、私たちにとっては聖書のみことばです。
そうやって主を慕い求めて歩むその歩み・・それこそが「主への務めを果たす歩み」だというわけです。
愛、苦しみ、みことば・・この三つは、信仰生活の重要なファクター(要因)であるようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
「あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。
そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」
創世記 26章3~4節
さて、先の出来事の後、イサクが寄留していた地に飢饉が起こりました。
それでイサクは近隣のペリシテ人の王アビメレクのもとに移住しました。
そのときに主がイサクに現れて言われたのが、今日の箇所です。
わたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす・・と。
神である主は、アブラハムに言われたのと同じことばで、イサクにその祝福の約束をされました。
あなたの子孫によって、地のすべての国々が祝福を受ける・・。
今までの歴史を振り返って、そのことばがぴったり当てはまるのは、このイスラエルのユダ部族の子孫として人のかたちを取ってこられた神、イエス・キリストによって地の果てまでの世界中の民の上に、神の赦しの福音が宣べ伝えられている・・、そのこと以外にはありません。
主は七度にわたって、アブラハムに祝福を告げられました。そしてさらに息子のイサクにも同じように語られたのです。
そして約束の地カナンがイスラエル民族に与えられることも、そして地の果てまでのすべての民が祝福を受けることも、すべて実現しているのです。
同じように人類は、2000年の間にわたって主の祝福(救い)の約束、すなわち天の御国の福音をずっと聞かされ続けているのです。
主は私たちに、これから確かに起きる事を語り続けておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮(あなど)った。"
創世記 25章34節
この時代、人でも家畜でも、初子(ういご)は神に属するものとされ、特別に価値があると考えられていました。
エサウはその価値を侮ったというわけです。
そして後になって、その代償となるような出来事が起こり、結局弟のヤコブが長子の権利を受け取ってしまいます。
聖書は私たちクリスチャンについて、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3) と言っています。
そして黙示録 21章7節では、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。」とあります。
これこそが長子の権利であって、それが信じるすべての者に与えられるというのです。
ところが、私たちもこの権利を侮ってしまうことがあるんですね。
この世の歩みにおいて、私たちは常にある種の戦いに晒(さら)されています。
それは御霊の思いを取るか、肉の思いを取るか・・。
肉の思いを取ってしまったと思い当たる経験は、おそらく100%の方にあるのではないかと思います。
しかしそれこそが「長子の権利を侮った」その瞬間なんですね。
私たちはいつも、この大きな恵みによる祝福を覚え、それを侮ってもとの暗闇の生活に舞い戻ってしまうことのないようにしたいものです。
私たちは、天にあるすべての霊的祝福をいただいているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。"
創世記 25章32~33節
ヤコブが「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言ったそのことばに対して、空腹と疲れで死にそうになっているエサウは、目の前の煮物を取るしかありませんでした。
長子の権利は目に見えないものです。そして目の前にはおいしそうな、そして今まさに自分に必要なものが、そこにはあったわけです。
しかしながら少し落ち着いて考えれば、一杯の煮物よりも長子の権利の方がはるかに重要なものであることは、だれにでも分かるはずです。
エサウは「現状」のみに心が奪われて、大きな過ちを犯してしまうんですね。
エサウは本当は怒れば良かったんです。
自分が取ってきたこの獲物はだれのためだと思っているのか・・と。
その煮物を自分に食べさせないというなら、この獲物はおまえになどやるものか・・と。
しかしエサウはそれどころではなく、自分の状況・・死にそうになっている・・ことと、目の前にある煮物に目と心が奪われて、正しい判断がまったくできませんでした。
私たちも、目の前のことに心を奪われて、一番大切なものを捨ててしまうこと・・、ないでしょうか。
一番大切なもの・・?
それは、自分のいのちであり、喜びであり、力であり、いつもいつも良き助言者である、主イエス・キリストであることは言うまでもありません。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。"
創世記 25章30~31節
リベカがイサクに生んだ双子、エサウとヤコブは成長し、エサウは得意の狩りをする人になり、一方ヤコブは活動的な人ではなく、家の仕事をしていたようです。
ある日、エサウが狩りから疲れ切って帰ってきたとき、ヤコブはちょうどおいしそうな煮物を作っていました。
エサウはどうかそれを食べさせてくれと、ヤコブに懇願します。
普通に考えれば、さあさあお疲れ様でした、どうぞ食べてくださいと言うのが筋です。
しかしヤコブはなんと、「今すぐ私に長子の権利を売ってください」と言ったというのです。
一杯の煮物を餌にして、兄の長子の権利を奪おうとしたのです。
エサウは家族のために狩りをして帰ってきたのに・・です。
前回「神は、人のいかにも人間くさい弱さをそのまま用いて、最後には弟のヤコブを、神の民イスラエルの始祖とされた」と書きました。
その「人間くさい弱さ」・・、そこには悪辣(あくらつ)さもあるんですね。
あなたはこのヤコブを責めますか。
聖書はすべての人は罪人であると断言し、さらに「すべて他人をさばく者よ・・さばくあなたは同じ事をしている (ローマ2-1)」 と、私たちすべての者の罪深さの実態を鋭く指摘しています。
もしあなたがこのヤコブを見るとき、ヤコブを責めるのではなく、自分の内にある同じような悪辣さを見る機会となるならば、それはこの上なく幸いなときになるに違いありません。
なぜなら、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれた・・、それが改めて分かるときになるからです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。"
創世記 25章26節
イサクの20年間の祈りが応えられて、リベカはついに双子を授かります。
この時、後から出てきた弟は先に出てくる兄のかかとをつかんでいたというのです。
それは先に出てくる兄に対して「ちょっと待て」と言っているようです。
しかしこの事は、その後の二人の行く末を象徴するかのような出来事でした。
神である主はすでにリベカに語っておられました。
この二人は大いなる国民となるが「兄が弟に仕えるようになる」と。(23節)
そしてそのご計画を実現させるために神は、このあとの話を見ていけばわかる通り、人(ヤコブ,リベカ,リベカの兄ラバン) のいかにも人間くさい弱さをそのまま用いて、最後には弟のヤコブを、神の民イスラエルの始祖とされるのです。
私たちクリスチャンの上にも、どうしてこんなことが起こるのだろうというような、ある種の運命的な出来事が起こることがあります。
そこでいつも思い知らされるのは「自分の弱さ」です。
しかし神である主は、そういう私たちの弱ささえも用いて、私たち一人ひとりの上にあるご計画を実現される方であるということを、このヤコブの生涯は教えてくれるんですね。
私たちは、このような弱い自分、時には神様を悲しませてしまうような自分を愛し、守り導いてくださる主を、ただ信じて歩んでいけば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」"
創世記 25章23節
リベカはおなかの中の双子がぶつかり合うようになったので、主のみこころを求めて出て行き、主から直接みことばをいただきました。
この双子は二つの国民となり、そして兄が弟に仕えるというのです。
後にイスラエルと名付けられるヤコブは、この双子の弟の方だったんですね。
この当時も今も、長子は父のものを相続するのに一番優先される存在ですが、神の選びというものは必ずしもそうではないようです。
エジプトで王に次ぐ権力を与えられたヨセフはイスラエルの12人兄弟の下から二番目の嫌われ者、モーセはアロンの弟で言葉数の少ない引っ込み思案の男、ダビデは兄弟の数にも入れられていなかった8人兄弟の末っ子・・という風に。
これらの神の選びの器は皆、人が当たり前だと考えるような存在ではなく、むしろ訝(いぶか)しがるような存在だったんですね。
私たちは自分について、神に選ばれるにふさわしいような者ではないという感覚を持ってはいないでしょうか。
しかし、イエス・キリストによって新しい契約のうちに入れられたクリスチャンは、神と直接交わる者としてこの世に置かれた者・・すなわち、すでに神に選ばれている器なんですね。
神があなたを選ばれたのです。
私たちはいつもそのことを、しっかり覚えていたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。"
創世記 25章22節
リベカは双子を身ごもりました。
ところがその二人の子が「腹の中でぶつかり合うようになった」というのです。
おなかの中で起こっている出来事に、リベカは不安になりました。
そしてリベカは何をしたかというと、「主のみこころを求めて出て行った」というのです。
それはもっと後の時代には「預言者」のところに行って神の御心を求めることを指しました。(第一サムエル9:8)
しかしこの時代は、そのような人はいませんし、神の御心を求めることができるのは夫のイサク以外にはいないはずです。
ですが「出て行った」とありますから、リベカは普段の生活から離れて、どこかに出て行って、一人で祈ろうとしたのではないでしょうか。
このあとの23節では、「すると主は彼女に言われた」とあります。
リベカは主のみこころを自分で祈り求め、それによって答えをいただいたんですね。
私たちは、主のみこころは一体どこにあるんだろうと悩むことがあります。
なぜこんなことが起こるんだろう、主のみこころはどこにあるんだろう・・。
出て行って祈る・・それは祈りのために、普段の生活から離れて、一日あるいはもっと長い日数を、主との交わりのためだけに過ごすということのようです。
あなたもそのような時間を持ってみませんか。
あなたの上にある主のみこころ(ご計画)を教えていただくために・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。"
創世記 25章21節
アブラハムが死んで葬られたことが記された後、サラの女奴隷ハガルの子イシュマエルから出た12人の族長たちのことに話に移り、彼らは「すべての兄弟たちに敵対していた」ということが書かれています。(7-18節)
そして19節からは、イサクの歴史に入ります。
イサクの妻リベカは「不妊の女」でした。それでイサクは主に祈ったとあります。
それで「主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった」とあっさり書かれています。
しかしリベカが双子を生んだそのとき、イサクは60歳でした。(26節)
イサクがリベカを妻に迎えたのは40歳のときです。(20節)
ですからイサクは実に20年近く祈り続けたということがわかります。
御心にかなった願いは聞かれる・・。
しかし聞かれるそのタイミングは、神が定めておられるんですね。
主がそのご計画を実現していくとき・・、それは確実ではありながらも順風満帆ではないということを、私たちは学ぶべきなのかも知れません。
なぜ主はそのようなことをされるのでしょうか。
それは、私たちが主に叫び求めつつそれが実現することによって、これは自分の力ではなく、主がなさったことであるということを、祈った私たち自身がしっかり心に刻むためなのではないでしょうか。
これがどうも、主がなさることのパターンのようですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)