" 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」"
創世記 28章17節
主がヤコブに夢の中で語られた祝福、それはアブラハム、イサクとまったく同じでした。
ところでこの夢の最初は、次のようなものです。
・・すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。(12節)
そして眠りから覚めて言ったヤコブのことばが、今日の箇所17節です。
ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ・・。
聖書には「天」ということばと「地」ということばが出てきます。
天とは、時には天空を指しますが、ここで使われている天とは「神の領域」のことです。
ヤコブが見たこのまぼろしは、神の領域と地の領域とがつながっているというまぼろしだったわけです。
地に属する者が、神の恵みとあわれみによって、天とつながる者とされた・・それがクリスチャンです。
そして天につながる一本のはしご、そして「天の門」・・、それは私たちを天につなげてくれる唯一の救い主、イエス・キリストを象徴するものにほかなりません。
旧約聖書はここでも私たちに、救いの型を見せてくれているのです。
天につながる一本のはしご・・それは一本だけでした。
それがイエス・キリストなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"
創世記 28章15節
ヤコブは伯父ラバンのいるハランに向かって旅立ちました。
その途中の一夜の出来事・・。
ヤコブは夢を見ます。それは天に届くはしごが地に立てられていて、神の使いたちがそのはしごを上り下りしていた・・というものでした。
そこで主のことばがヤコブに臨みます。
それはアブラハムとイサクの上に与えられた祝福の約束とまったく同じものでした。
さらに・・、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、この地に連れ帰り、約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない・・と、これは「もったいなすぎる」ような、ヤコブにとってはおよそ分(ぶん)不相応と思われるような祝福です。
しかし主は、初めからヤコブを選ばれていたんですね。
主に選ばれる人の基準って、何なのでしょうか。
少なくとも「資質」の問題ではなさそうです。
ただヤコブはエサウのように他の神々には近づこうとしなかった、ただそれだけです。
よく考えれば、それは私たちの救いとまったく同じだということに気がつきます。
主は受ける資質など全くないような者を招かれ、その人がただ主イエス・キリストに目を向け、信じたというだけで永遠のいのちを与えて下さるお方なのです。
主の祝福は100%の「恵み=受け取るだけ」であり、「あわれみ」なんですね。
これまでのヤコブとエサウにまつわる一連の出来事は、そのことをこれでもかというほど私たちに教えてくれているのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さらにエサウは、カナンの娘たちを、父イサクが気に入っていないことを知った。
それでエサウはイシュマエルのところに行き、今いる妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻として迎えた。"
創世記 28章8~9節
エサウは父が改めてヤコブを祝福したこと、そして父の家の血のつながっている者から妻を迎えるために、ヤコブを送り出したことを知りました。
それでエサウは、両親が自分の二人の異邦人の妻を気に入っていないことに気がついたというのです。
それでエサウは、イサクの兄イシュマエルの娘を妻として迎えます。
しかしこのイシュマエルは、アブラハムの妻サラから生まれたのではなく、女奴隷エジプト人ハガルから生まれた子でした。
エサウはこれで両親も少しは安心するかと思ったのでしょうか。
しかしこの妻も結局、エジプト人という異邦人の血が混ざった娘であったわけです。
そしてここでエサウについての話は終わり、次に出てくるのはエサウの子孫の一族、異邦人としてのエドムなのです。
私たちクリスチャンは、神の子としての系図に入れられる者となりました。
しかしその歩みの中に「他の血」すなわち、神以外の偶像をそこに混ぜては絶対にいけないんですね。
そのようなことをするなら、私たちはそのまま霊的な「異邦人」になってしまうのです。
主だけをあがめ慕い求めていくことは、私たちにとって、神の国の相続人として歩み続けるための最重要ポイントなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムの、ラバンのところに行った。ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところである。"
創世記 28章5節
イサクはリベカの促しもあり、改めて自らの意思をもって下の子ヤコブを祝福することを心に決め、ヤコブをリベカの実家に送り出します。
こうしてヤコブは、母リベカの兄ラバンの所へ向かいました。
エサウは一杯のスープのために、自分の長子の権利をさげすみ、そんなものはおまえにやると弟のヤコブに宣言してしまいました。
そしてそれがまさか、このような結末になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
一方ヤコブは、父をだまして祝福を自分のものとしましたが、まさかそのあと、父の家にはいられなくなり、ひとりで逃避行に出ることになるとは、これもまた夢にも思っていなかったことなのではないでしょうか。
人はみな、自分の行いの刈り取りをする・・すなわち、その結果を見ることになるということを、ここでは見せられているように思います。
と同時に神は、そのような人の愚かさや弱さからくる出来事の中で、神はご自身が言われたことを確実に成就されるお方であるということを、このあとの創世記の流れで、さらには聖書全体からもそれを見ることができるわけです。(29章〜50章)
私たちは自分のことばや行いの結果を見させられます。
しかし主は、そのことをも用いて未熟な私たちを扱われ、そして私たちを主に相応(ふさわ)しい器として変えて行かれつつ、確実に天の御国へと導いて下さるんですね。
神はおよそ相応(ふさわ)しくない者に祝福を与えることで、神の一方的な愛と赦しをそこに現されるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」"
創世記 27章46節
この前の41〜45節には、母リベカがヤコブに、兄エサウがあなたを殺そうとしているから今すぐ私(リベカ)の兄のラバンの所へ逃げなさいと言った、そのときのことが記されています。そしてこの46節・・。
リベカは夫イサクを説得するために、エサウの嫁たちの問題を持ち出したのです。
神である主によって祝福されたアブラハムの血筋が、他の神々を拝む民(エサウの妻たち)によって汚されてはいけないということを、リベカはイサクに訴えたわけです。
このリベカのことばは、イサクが確信をもってヤコブをラバンの元に送り出すためには十分なものでした。
そしてこのことで、神の民の血筋は守られることになったのです。
結局リベカと息子のヤコブは、罪深い弱さを持ちながらも、イエス・キリストへの系図の最初の部分を担保した(守り抜いた)のです。
この出来事は、どんなに弱くまた罪を犯してしまうような私たちであっても、ただ主から目を逸らさないでいるなら、その歩みの上に神は、ご自身の計画を現わしてくださるのだということを教えてくれているのではないでしょうか。
私たちに求められること・・それは私たちがどんな者であるにしても、またどんなことがあったとしても、「主のことを思っている人かどうか」・・ただそれだけなんですね。
主はその人の上に、みこころを成し遂げられ、ご自身を現してくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 父イサクは彼に答えた。「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。
おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」"
創世記 27章39~40節 前回と同じ箇所です。
この同じ箇所を「預言」として見るとき、そこには驚くほど正確な未来が語られていることがわかります。
それはこの時から更に1000年後のことです。
ヤコブの子孫すなわちイスラエル王国は栄華を極め、約束の地を支配し、そして周辺国も支配していました。
その中のひとつに「エドム」という国があります。このエドムこそがエサウの子孫なんですね。兄が弟に仕えるとは、このことだったわけです。
そしてこのエドムという国は死海南東の、肥沃ではない、どちらかというと山岳地帯で、荒野の続きのような地域でした。
おまえの住むところには地の肥沃がなく、上から天の露もない・・というこのイサクのことばの通りです。
そして「しかし、おまえが奮い立つなら・・」とあります。
それはイスラエルの王国が南北に分裂してから、約100年後に起こりました。
エドムは南ユダ王国に背き、自分たちの上に王を立てたのです。すなわち「奮い立った」のです。
そこに戦いはありましたが、結局「エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。」(列王記第二 8:22)
こうしてエドムはイスラエルのくびきを解き捨てたわけです。
このイサクの預言は、未来をそのまま語ったものだったんですね。
聖書の神は、これから後に起こることを正確に語られるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 父イサクは彼に答えた。「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。
おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」"
創世記 27章39~40節
「私のためには、祝福を取っておられなかったのですか。」(36節) と、泣いてすがるエサウに、イサクはこれも預言のようなことばを語ります。
それは、エサウは厳しい環境の中で、しかも常に戦いの中を生き抜いていかなければならないというものでした。しかし最後に不思議なことが語られます。
「おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てる」・・
それはヤコブとの関係から解放されるという意味です。
それでエサウはヤコブに対する殺意に燃えます。(41節)
しかしヤコブを殺すことで、エサウの心は本当に解放されるのでしょうか。
結局この話は人間関係の縛りから解放される・・という話です。
長い時の流れが過ぎ、ヤコブが本当にへりくだった者として帰ってきたとき、やっとエサウにもヤコブを赦す心が与えられました。この時エサウは初めて、ヤコブのくびきから解放されたんですね。(33章)
奮い立つ・・、それは力を振り絞って自分の道を切り開くという意味ではなく、時間がかかったとしても心と力を尽くして「平和の神」というところに立ち続ける、という意味なのではないでしょうか。
力は主イエス・キリストにあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」"
創世記 27章33節
ヤコブが父イサクをだました直後に、兄のエサウが獲物を仕留めて帰り、父のもとにおいしい料理を持ってきます。(30-32節)
それで・・というのが、今日の箇所です。
先の祝福はだまされてやった祝福であることがわかりました、と同時にそれは軽々しく変更のできるものではない、厳粛なものでした。
それは神の御名による祝福、そしてアブラハムに与えられた神の約束の流れでの祝福でした。
それはイサクの人間的な願いからくる遺言としての祝福ではなく、預言 (神からのことば) として与えられたものでした。
彼は必ず祝福されるだろう・・。
この一連の出来事を読むとき、私たちはそこにある理不尽さに、どうしても目が行ってしまいます。
結局ヤコブはそのままおいしい汁を吸うって話か・・と。
しかしヤコブの歩みはこのあとの逃避行に始まり、最後の死に至るまで、それはとても厳しいものでした。
神はヤコブを、それなりに扱われたんですね。
それはまさしく、罪人が恵みによって救われ、そこから神に取り扱われながら成長していくクリスチャンの信仰生活の「型」その物を見ているようです。
ではこのあとのヤコブの生涯を見て行きましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"「諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」"
創世記 27章29節・・前回と同じ箇所です。
祝福ということばには、どういう意味があるのでしょうか。
「神が祝福される」と言う場合、それは大きく捉えるならば、そこに神がご自身を現され、そこに良いことをされ、それを人々が見るようになるということです。
そしてその祝福は、繁栄とか力とか信仰とか・・様々なことの上に表わされるわけです。
では、神ではなく人が人を祝福するというのは、どういうことなのでしょうか。
このイサクのことばの中では、「呪う」と「祝福する」ということばが対比されて出てきます。
簡単に言ってしまえば、呪うとはその人の上に悪いことが起きることを願うことで、祝福するとは、その人の上に良いことが起きることを願うという意味です。
しかし聖書全体を通してその背後にある本質的な意味を考えるならば、のろうとは神から切り離されることを願うことで、祝福とは神が共におられることを願うことだということが見えてきます。
このイサクのことばは、明らかに先のことを語っている預言(神のことば)です。
ならばそれは、現代の私たちの上に置かれているものでもあるわけです。
おまえ=イスラエル・・この民は今でもユダヤ人として、世界中に特別な民として存在しています。
そして私たちはこの民を見るとき、世界の始めから終わりまでを支配され、この先にはっきり計画を持たれる神をそこに認めるべきなんですね。
この民を祝福する・・それはこの終わりに時に際して、神の御心が更に前進することを願うことだと・・その意味が見えてくるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"「諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」"
創世記 27章29節
イサクは自分のところに来たのがエサウだと思い込んで、弟のヤコブを祝福してしまった・・、それが今日の箇所です。
ところで、この二人の子がまだリベカのおなかの中にいるとき、主はリベカに「兄が弟に仕える。」とはっきりと宣言されたことを覚えておられるでしょうか。(25:23)
この時すでに、主は弟ヤコブの方を祝福することに決めておられたんですね。
リベカは、このことを夫イサクに話していたに違いありません。
イサクは、このことをすでに知っていたはずなのです。
しかしイサクがそれを知っていて、敢えて主に逆らったとは考えにくいです。
おそらく長男を祝福するというのは、イサクにとって至極当然のことで、そのことに何の疑問もなくそれをしようとしたのではないでしょうか。
しかし主はそんなイサクを用いて、弟の方を祝福するというそのご計画を遂行(すいこう)されたというわけです。
仮に主がリベカに語られたことをイサクが覚えていたとしても、長男の前で弟のヤコブを祝福することなど、イサクにはとてもできなかったかも知れません。
ところがイサクは思いの限り、ヤコブの方を祝福したのです。
この出来事は神である主が、イサクが自信をもってヤコブを祝福することができるようにするためのものであった・・という見方もできるわけです。
主は弱い私たちを用いて、そのご計画を確実に進めて行かれるお方のようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)