" イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。
こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。"
創世記 26章12~13節
神の祝福を約束されたイサク・・。
その弱ささえも主は用い、王の命によって身を守られるという「絶対安全な」処遇を与えられ、イサクはこのペリシテ人の国に住めることとなり、さらにその上に、このようにあふれるばかりの祝福を与えられたというのです。
イサクが世渡りに長けているとか、何か特別な才能があったとかいうことは、どこにも書いてありません。
主がイサクを「祝福された」のです。
"主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。" (箴言10-22)
弱さを通しても良きことをされ、更に「主が祝福された」ということで百倍の収穫を見、ますます栄えて、非常に裕福になったというのです。
それは主がイサクと共におられた、ということに他なりません。
ところで、” 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。" (第一コリント12:3) とある通り、イエスを主と告白する私たちクリスチャンは、聖霊すなわち主がともにいてくださるようになった者です。
だったらそれは、主の祝福があなたの上にあることが確定したということでなくて何でしょうか。
こうして私たちは、永遠のいのち、天のすべての霊的祝福を約束され、その生涯を終えるそのときまで、「祝福の原因」である主が共にいてくださる者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)