【理解を超えた主の導き】 創世記193
" さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」"
創世記 27章8~10節
イサクは年を取って、目がかすんでよく見えなくなっていました。(1節)
そのイサクは長男エサウを祝福するために、まず獲物を捕ってきて、それを料理して食べさせてくれとエサウに言います。
エサウはさっそく狩りに出かけたのですが、母リベカは、この祝福は長男にではなく、弟のヤコブが受けるべきだとし、あることを画策します。
それが今日の箇所です。
ヤコブは母リベカのこの提案に尻込みします。
大体、兄は毛深いし、いくら目が見えなくてもそんなことしたらすぐにばれてしまい、祝福どころか、のろいをこの身に受けてしまうでしょう・・と。(12節)
しかしリベカはヤコブに、兄エサウの着物を着させ、ツルツルの腕や首回りには子やぎの毛皮を巻き付けさせ、強引(ごういん)にこの計画を実行させます。
長子の権利がエサウに行ってはならないことは、リベカの確信でした。
リベカは当然自分がした悪を認識していました。しかしそれは、神に押し出されてしたとしか言いようがない・・というのがこの出来事です。
神はこの出来事を通して、イスラエルの民の初穂であるヤコブをその祝福に与(あずか)らせるのです。
これこそが、聖霊の促しの中で、ただその人は動いたとしか言いようのないことなのかも知れません。
すべての人は罪人であるというのが、聖書が主張する原則です。
そして神は、その罪深く弱い者を用いて、人類の歴史を導いてこられたんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)