"「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」"
創世記 27章24節
前回の記事を読んだ方から、「エサウがかわいそうで納得がいかない」という声をいただきました。
このところずっとその点を扱ってきたわけですが、もう一度・・。
エサウは異邦人の妻を二人迎え、両親を悩ませました。エサウは、ヤコブが作っていた食べ物ほしさに、長子の権利を「そんなもの、おまえにやるよ」と言いました。エサウは神の祝福というものに対して熱心ではなかったようです。
一方ヤコブは、一杯の煮物で兄から長子の権利を奪うという姑息(こそく)なことをします。そして実際に長子の権利を自分のものにするために父と兄を欺(あざむ)くのです。
ヤコブは「長子の権利」すなわち神の祝福を渇望していました。
以前にダビデ王のことを引き合いに出したことがあります。
このダビデの前のイスラエル王国の初代の王サウルは主に選ばれた器だったのですが、神のことばをないがしろにして、聖絶せよと言われていた敵のすべてのものの中から、自分が良いと思うものを残して神の怒りを買います。それは、神のことばに対して熱心ではなかったということです。
一方ダビデは、手下からその妻を強引(ごういん)に奪い、その手下を殺してしまうという罪を犯し、神の怒りを買います。
しかしダビデは、この怒りを買ったときにさえ主を求め続け、主から離れようとはしませんでした。
ダビデとヤコブ、そしてエサウとサウル・・そこにある明確な違いは「主を熱心に求めているかどうか」だけであることがわかります。
神の御前に相応しくない者が主に顔を向け、この方のもとに行くならば、主はその人を祝福されるのです。
ここに「福音」の基本があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)