" リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」"
創世記 27章46節
この前の41〜45節には、母リベカがヤコブに、兄エサウがあなたを殺そうとしているから今すぐ私(リベカ)の兄のラバンの所へ逃げなさいと言った、そのときのことが記されています。そしてこの46節・・。
リベカは夫イサクを説得するために、エサウの嫁たちの問題を持ち出したのです。
神である主によって祝福されたアブラハムの血筋が、他の神々を拝む民(エサウの妻たち)によって汚されてはいけないということを、リベカはイサクに訴えたわけです。
このリベカのことばは、イサクが確信をもってヤコブをラバンの元に送り出すためには十分なものでした。
そしてこのことで、神の民の血筋は守られることになったのです。
結局リベカと息子のヤコブは、罪深い弱さを持ちながらも、イエス・キリストへの系図の最初の部分を担保した(守り抜いた)のです。
この出来事は、どんなに弱くまた罪を犯してしまうような私たちであっても、ただ主から目を逸らさないでいるなら、その歩みの上に神は、ご自身の計画を現わしてくださるのだということを教えてくれているのではないでしょうか。
私たちに求められること・・それは私たちがどんな者であるにしても、またどんなことがあったとしても、「主のことを思っている人かどうか」・・ただそれだけなんですね。
主はその人の上に、みこころを成し遂げられ、ご自身を現してくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)