" こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムの、ラバンのところに行った。ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところである。"
創世記 28章5節
イサクはリベカの促しもあり、改めて自らの意思をもって下の子ヤコブを祝福することを心に決め、ヤコブをリベカの実家に送り出します。
こうしてヤコブは、母リベカの兄ラバンの所へ向かいました。
エサウは一杯のスープのために、自分の長子の権利をさげすみ、そんなものはおまえにやると弟のヤコブに宣言してしまいました。
そしてそれがまさか、このような結末になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
一方ヤコブは、父をだまして祝福を自分のものとしましたが、まさかそのあと、父の家にはいられなくなり、ひとりで逃避行に出ることになるとは、これもまた夢にも思っていなかったことなのではないでしょうか。
人はみな、自分の行いの刈り取りをする・・すなわち、その結果を見ることになるということを、ここでは見せられているように思います。
と同時に神は、そのような人の愚かさや弱さからくる出来事の中で、神はご自身が言われたことを確実に成就されるお方であるということを、このあとの創世記の流れで、さらには聖書全体からもそれを見ることができるわけです。(29章〜50章)
私たちは自分のことばや行いの結果を見させられます。
しかし主は、そのことをも用いて未熟な私たちを扱われ、そして私たちを主に相応(ふさわ)しい器として変えて行かれつつ、確実に天の御国へと導いて下さるんですね。
神はおよそ相応(ふさわ)しくない者に祝福を与えることで、神の一方的な愛と赦しをそこに現されるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)