" それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」
彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」"
創世記 34章30~31節
ヤコブはやっと帰るべきところに帰り、そこに家を建て、祭壇を築き、イスラエルとしての新しい歩みが始まる・・はずでした。
ところが、さっそく問題が起きるのです。(43章全部)
レアの娘のディナが、その土地の娘を訪ねようと出かけていったら、族長ハモルの子シェケムが「彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた」というのです。
シェケムと族長である父のハモルは、友好的にディナとの結婚を願い出るのですが、ディナと同じ母を持つ兄のシメオンとレビは激しく怒り、その町のすべての男を殺し、その財産のすべてをかすめ奪うという結果になってしまいます。
そしてそのあとにヤコブが言った言葉が今日の箇所です。
結局このことでシメオンとレビは、地域の人から警戒され、安心できない状況を招いてしまったわけです。ところが彼らは、そんなことよりも妹のことが大切だと、父との確執にまでこの話は発展します。
しかしこの結末を別の視点から見るなら、ディナは取り戻され、イスラエルは他民族との混血によってその純粋性が失われるという、神の民としての最大の危機が回避されたということが見えてきます。
神の側から見るならば、神はご自身の民を「世と混ざり合うこと」から守られたのです。
この時点で神の民が世と混ざり合い、その存在が特別なものでなくなってしまったら、このあとの神の壮大な計画は、ここで断ち切れになってしまうのです。
ここでも神は、罪びとのなせるわざの上に、そのご計画を進められるという型を見ることができるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。"
創世記 33章20節
ヤコブと和解をした兄エサウは、ヤコブを自分のところに向かえようとするのですが、ヤコブはやんわりとそれを断り、兄エサウがいる南方のセイルではなく西方のスコテに移動し、その地の一画を買い取り、そこに家を建てます。(12-19節)
それはカナンの地のシェケムという町に属するエリアにありました。(17節)
シェケム・・、それはアブラハムがカナンの地にやってきて最初に足を止めた所で、神のアブラハムに対する最初の約束が語られたところです。
わたしは、あなたの子孫にこの地を与える・・。(創世記12:7)
そしてアブラハムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた・・、それがこのシェケムです。
ヤコブは恐らく父イサクから、そのことは聞いて知っていたでしょう。
ヤコブはやっと帰るべきところに帰ってきたという、感慨深い思いがあったのではないでしょうか。
エル・エロヘ・イスラエル・・それは「イスラエルの神である神」という意味です。
神が最初に約束されたその場所に、いよいよ「イスラエル」の名の記された祭壇が築かれたのです。
今までひどいこともし、またひどいこともされて、やっとその場所から逃れ、神に向き合い、祝福をいただき、自分のしたことも赦され、帰るべきところに帰って、祭壇を築いた・・。
それが25章から33章までの話の大きな流れです。
このヤコブの祭壇は、ここから新しい歩みをスタートさせようという決意の象徴です。
私たちも、そのように主にあって新しい一歩を踏み出す決意をするならば、それは偉大な神のみわざを見る、大きな祝福の歩みのスタートとなるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。"
創世記 33章3節
ヤコブは足を引きずる状態で、いよいよ兄エサウに会うことになります。
一方エサウは、四百人の人を従えてこちらに向かってきます。
そこでヤコブは、自分の家族を四つに分け、二人の女奴隷とその子たち、そしてレアとその子たち、そして一番大切な存在であるラケルとその子ヨセフを最後に残して並ばせ、自分はその先頭に立ちました。(1-2節)
長子の権利を奪い取り、恨みを買い、逃亡したヤコブ・・。
そのヤコブは、夜を徹して神と格闘し(祈り)、その結果、自分を守る力は奪い取られ、自分を憎んでいるであろうはずの兄の前に、自分を弁護しようとはせず、ただただ低い姿勢を取る者へと変えられていたようです。
そして、先には使者を使わして、自分は一番後ろに残るような者でしたが、今や家族の先頭に立って、ヤコブは兄の前にひれ伏す者になっていたのです。
" エサウは迎えに走ってきて、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。" (4節)
結局この和解は、夜を徹しての祈りの結果、ヤコブは兄の前にひれ伏す心が与えられたと同時に、兄の前に出る勇気も与えられて実現したというわけです。
心が砕かれるなら、人の前にへりくだると同時に、人を恐れることもなくなるんですね。
主の前にひれ伏すとき、私たちは人を愛する心と、人の前に出ていく心が与えられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。"
創世記 32章31節
ヤコブが「祝福をいただくまで、あなたを去らせません」と、一晩中神と格闘した結果、ヤコブはイスラエルという名に変えられ、神の民の父となる約束をいただきます。
この時主はヤコブに、「あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」と言われました。(28節)
ヤコブは格闘に勝ったのでしょうか。
ヤコブはすでにこの格闘の中で、ももの関節を打たれ、それは外れて普通には歩けないような状態になっています。(25節)
勝った・・、それはヤコブのいのちをかけた祈りに神が応(こた)えられた、ということなのではないでしょうか。
夜が明けてから、ヤコブは先に送り出した家族のところに向かうのですが、彼は足を引きずっていました。それが今日の箇所です。
これから、自分を憎んでいるであろう兄のエサウに会うというのに、ヤコブは戦うことも何もできない状態になっていたのです。
私たちが本当に大切なことに臨まなければならないとき、神は私たちをまったく無力な者とされることがあるようです。
でもこれは実は、神がなさるいつものパターンなんですね。
なぜそのようなことをなさるのでしょうか。
それはひと言で言えば、神がなされたとしか言いようのない結果となるためです。
そのために、自分の能力や知識は必要ないのです。
求められているのはただ、主は私に良きことをしてくださる方だという「信仰」なのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」"
創世記 32章26節
ヤコブは家畜としもべ、そして家族と全財産を先に送り出し、自分は一人残りました。
その時「ある人が夜明けまで彼と格闘した」とあります。(24節)
「その人はヤコブに勝てないのを見て取って、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」というのです。(25節)
そのときにその人が言ったのが今日の箇所です。
その格闘は「夜が明けるまで」続き、ヤコブはその人から祝福をもらうまでは、絶対にその人を放しませんでした。
そしてそれに続くのが以下の27.28節です。
"その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」"
この人は、神であり、また人である、と自ら言っています。
ならばそれは、紛れもなく人としてこられたキリストに他なりません。
結局ヤコブは、神と夜を徹して格闘したのです。
それは私たちの信仰生活になぞらえるならば、夜を徹しての祈りです。
神は、ヤコブの「勝ち」を認め、ヤコブの名を「イスラエル」と改めました。
ヤコブという名の意味は「押しのける者」で、実際にヤコブは長子の権利を兄から横取りするような者でした。
そんな者が神と格闘し、イスラエルという、神の民としての祝福の名をいただいたのです。
どんな者であろうと、とにかく神に向き合い格闘する者かどうか・・、ここがどうもキモの部分のようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その夜をそこで過ごしてから、ヤコブは自分が手に入れたものの中から、兄エサウへの贈り物にするものを選び出した。"
創世記 32章13節
ヤコブは兄エサウへの和解のことばを託し、使いを送るのですが、エサウが四百人を引き連れてやってくると聞いて、非常に恐れます。
そして祈ったのが、前回の祈りです。
その祈りは「あなたはこう言われたではありませんか」という祈りでした。
そしてそのあと、ヤコブはその神の約束を根拠に、早速行動に出るのです。
ヤコブは、やぎ、羊、らくだ、牛、ろば・・合わせて550頭を選び出し、その群れを三つに分けて、しもべたちに先を行かせるように命じます。
三組はそれぞれ距離を置き、それぞれに「これはしもべヤコブからの贈り物です。ヤコブは後方におります」と言わせます。
エサウが三回も同じ光景を見れば、少しは心変わりがするかも知れないと思ったわけです。
そして、最後に二人の妻と女奴隷、そして十一人の子たちに、ヤボク川を渡って行かせ、ヤコブは一人残ります。(14-23節)
ヤコブは恐れのあまり、こんなことをしたわけです。
主の約束のことばに従うなら、それがどんなに拙(つたな)い行動であっても、とにかくやればよいのだということを、ここでは教えてくれているようです。
しかし、ヤコブはこのあと一人で神と向き合い、神との徹底的な時間を過ごしています。それがこのあとの24節以降の話です。
信仰による行動と、神との交わり・・
この両輪によって、その行動がどんなに拙いものであっても、その信仰生活は実を実らせていくんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。
私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。
どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。
あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」"
創世記 32章9~12節
伯父ラバンとの悪い関係の問題が解決し、いよいよ兄エサウのいる地域に近づいたその時のことです。神の使いがヤコブに現れました。(1-2節)
その時やコブは勇気を得て、いよいよ兄のところに行く備えを始めます。
ヤコブはまず先に使いを送り、今自分は多くの財産を持って帰ってきたことと、兄の好意を得ようとしていることとを、エサウに知らせます。
しかし、帰って来た使いがヤコブに知らせたことは、エサウが四百人を従えて迎えに来ようとしているということでした。
ヤコブは非常に恐れ、先ず自分の宿営を二つに分けます。
どちらかがやられても、半分は助かると思ったわけです。(7-8節)
その時のヤコブの祈りが、今日の箇所です。
私はあなたの約束に従ってきました・・と。
すべてはあなたから与えられるのです・・と。
そして具体的な願い、「兄の手から救い出して下さい」・・と。
さらに自分の気持、「私は恐れています」・・と。
そしてヤコブは、最後にもう一度、神の約束を盾にとって、神に訴えるのです。
「わたしはあなたを必ず幸せにする」と言われたではありませんか・・と。
主は私たちに、赦しと、守りと、永遠のいのちを約束されているのです。
私たちも恐れに支配されたときには、この神の約束を根拠に祈ってみませんか。
主は「信仰に」答えてくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」"
創世記 31章24節
ヤコブは夜逃げのようにして、ラバンのもとから逃げ出します。
後ろからはラバンが追ってくる・・、そして目的地には自分の命を狙うであろう兄のエサウがいる。
この旅は初めから前途多難ならぬ、前後多難、八方塞がりの旅でした。
ヤコブがラバンを欺いて逃げ出したこと(20節)、そしてこともあろうに、ラバンが最も大切にしていたであろう偶像のテラフィムをラケルが盗み出してしまったことで、ラバンの怒りは頂点に達していました。(19節)
ラバンは身内の者たちを引き連れ、ヤコブを追い、七日で追いつきます。
何が起きるかわからない一触即発の状態・・。
ところがここに神が介入されるんですね。それが今日の箇所です。
ヤコブの逃げ方にしろ、ラケルがやったことにしろ、それはきわめて人間的な弱さや罪深さを象徴するようなことです。
しかし神が現れて、それを責めようとするラバンに「善悪は論じないようにしろ」と語られたというのです。
そして最終的には、ラバンとヤコブは平和協定を結び、ラバンは娘たちと最後の別れをして帰って行くというのが、この話の結末です。(22-55節)
このことを通して私たちは何を見るのでしょうか。
ヤコブやラケルの罪深さや弱さ? それとも罪深い者であるのにあわれみを受けている自分?
実はその視点の持ち方ひとつで、私たちの心はまったく異なる状態へと導かれていきます。
愚かで弱い自分の上にある神のあわれみと赦しをいつも覚え、その愛と平安の中で生かされていることをいつも喜ぶこと・・。
それが、この箇所が教えてくれることなのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ラケルとレアは答えた。「私たちの父の家には、相続財産で私たちの取り分がまだあるでしょうか。
私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。あの人は私たちを売り、しかもその代金を食いつぶしたのですから。"
創世記 31章14~15節
今日の箇所は、ヤコブが「あなたの生まれた国に帰りなさい」と神に告げられたことをラケルとレアに話をしたときの、彼女たちの反応です。
「あの人は私たちを売り」とは、花嫁料として父親に支払われるものを指すもので、それはヤコブの20年間の無償の働きでした。
しかし、父親としては、それを娘のために蓄えておくべきであったにもかかわらず、その形跡はどこにもなかった、すなわち食いつぶしたと、娘たちは見ていたようです。
それで彼女たちは言いました。「神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものです。さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさって下さい」と。(16節)
ラバンとの関係が冷え切ったことと、妻たちも父親に不信感を抱いたこと、そして妻たちは「神がお告げになったことをすべてして下さい」と言った・・。
ヤコブにとって、生まれ故郷に帰るための障壁はもう何もありませんでした。
ただ、この旅の先には、恐らく自分を恨んでいるであろう兄のエサウがいるということ・・、それだけが残された問題でした。
一歩踏み出すには状況が整った・・、しかし先には明らかに待ち受ける問題がある・・。
ヤコブは、神である主が言われたことに聞き従いました。(17節)
神は状況を整えることで、私たちの行動を促されることがあります。
それでも前途多難であることは見えている・・。
もしそんなことがあるなら、私たちは恐れずに出て行くべきなのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしは、あのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに誓願を立てた。さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」"
創世記 31章13節
ベテル・・、それはヤコブが伯父のラバンがいるハランに向けて旅出ったときに、神からの幻を夢の中で見たその場所です。
そこでヤコブが見たのは、地と天をつなぐはしごを御使いたちが上り下りしているという幻でした。
神の領域につなげられているという祝福に与(あずか)っていることを見たヤコブは、そこで誓願を立てました。
それは、主がこの旅路を守り、無事に父の家に帰らせて下さるなら、父イサク、また祖父アブラハムと同様に、あなたは私の神です・・というものでした。(28:20-22)
神はこの誓願を覚えておられ、「さあ立って、あなたの生まれた国に帰りなさい」と言われたのです・・。
それはもうラバンとの関係に悩まされることなく、神との関係の中で、神のご計画に与(あずか)る者となるということの保証に他なりません。
神があなたを導かれるところ、それは自分を縛るすべての環境から解放されて、神との関係に生きる所なんですね。
そのために神はヤコブの環境をすべて整え、このあと妻たちの心もヤコブとひとつになって、ヤコブ一族はラバンから離れていくのです。(14-16節)
帰るべき所・・それは神のふところです。
そこに行く行程に、恐れや不安はありますが、神はそのためならあらゆる環境を整えて、あなたとその家族が神とともに歩む者となるその道を用意して下さるのです。
恐れないで、ただ信じていなさい。(マルコ5:36)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)