
今週の「たいむ」は・・
【知恵と愛の神】・・です。
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God Bless You !
" あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」"
創世記 40章14~15節
ヨセフは牢獄の中で、エジプト王ファラオの怒りに触れて投獄された献酌官と料理官長が見た夢の解き明かしをすことになります。
献酌官が見た夢は良い夢で、三日の後に再びもとの地位に戻されるというもので、料理官長が見た夢は、三日の後に死刑に処せられるというものでした。
果たしてそれは、その通りに実現します。(20-22節)
夢の解き明をした時に、ヨセフは献酌官にあることを願い出ました。それが今日の箇所です。
ヨセフは、これを機会に自由の身になれるかも知れないという一縷(いちる)の望みを抱いたのかも知れません。
ヨセフは奴隷に売られた時も、また投獄された時でさえも、特別な地位に就くという神の御手の働きを見てきたにもかからわず、この牢獄にはどうしてもいたくないと思ったわけです。しかしその結果は23節にある通りでした。
” ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。"
自分の思いで、人(献酌官や王)の力を用いて事を進めようとしたヨセフに、神はさらにヨセフに時間を科せられようです。それがこのあとの41章を見るとわかります。
それは確かに、神の御手によって進められたのだとしか言いようのない展開なのです。
ですから私たちは苦しみの中にいる時も、自分で扉を開こうとするのではなく、神の主権のもとで神は必ず良きことをしてくださるお方・・感謝しますと、堅い信仰をもって進んで行けば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」 ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」"
創世記 40章8節
ヨセフは無実の罪で投獄されましたが、そこでも主はヨセフを祝福され、ヨセフは監獄で行われるすべてのことの管理を任されます。(39:21-23)
そんなときに、エジプト王ファラオの献酌官と料理官長がファラオを怒らせ、二人が投獄されてしまうという出来事が起きます。
そしてなんと王の侍従長は、同じ牢にいたヨセフを、この二人の付き人にしたのです。(1-4節)
ところがある晩、この二人がそれぞれ不思議な夢を見ます。
二人の顔色が優れないのでヨセフはどうしたのですかと尋ねます。(5-7節)
そのときの二人の答えが、今日の箇所です。
解き明かしは、神のなさることではありませんか・・。
神はヨセフがまだ若い時に、夢をもってまぼろしを示されています。
兄たちを示す畑の束(たば)が、自分の束を伏し拝んでいたとか、父母と十一人の兄弟を表わす星が、ヨセフを伏し拝んでいたとか・・。
それは神から与えられたまぼろしには違いありませんが、それを臆面もなく家族に話したことでヨセフは兄たちから恨まれ、エジプトに売り飛ばされてしまうのです。(37:7-10)
ところが今度は「夢を解き明かす」という賜物を用いることで、一介(いっかい)の奴隷がファラオの前に立つという奇跡が起きるのです。
結局ヨセフに与えられた神からの賜物を本当に発揮するのは、兄たちに奴隷として売り飛ばされるという悲しい出来事を通して、徹底的に心を低くされた、そのあとだったのです。
"主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。" (詩篇34:18)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。"
創世記 39章21~23節
ヨセフは監獄に入れられるのですが、そこでも主はともにいてくださって、ヨセフを祝福されました。
それは投獄される前の主人の家での出来事と全く同じです。
そしてそれは、このあとにエジプトの王と出会うときにも同じことが起きるのです。
実にヨセフは、このまったく異なる三つの場所で、すべてを任される人となったのです。
実はクリスチャンというのは、このような旧約聖書に登場する特別な人たちと同じ待遇をいただく者なんですね。
私たちが信じたイエス様というお方は、世の終わりまでいつもでもあなた方とともにいると言われるお方です。(マタイ28:20)
この方は、私たちがどのような境遇に置かれても、そこにともにいてくださるというのです。
富めるときにも貧しいときにも・・。
健やかなときにも病んでいるときにも・・。
ならば、主イエス様にいつも手を伸ばし、主を見上げて過ごそうではありませんか。
主はあなたを決して見放さず、見捨てないお方なのです。(申命記31;6)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。"
創世記 39章20節
奴隷となったヨセフは、その主人の全面的な信頼を得、すべての財産を任されるまでになりました。奴隷がその家の最高の地位に就いたのです。
しかしそこに、思いもしなかった誘惑がやってきます。
主人の妻が毎日のようにヨセフに言い寄ってきたのです。
そしてあるとき、家にはこの妻とヨセフ以外は誰もいないときに事件は起きます。
言い寄る妻がヨセフの上着をつかんで離さないので、ヨセフはそれを捨てて逃げ去るのですが、この妻はヨセフの上着を帰ってきた夫に見せて、なんと「ヨセフに襲われた」と訴えたのです。(11-18節)
それで、ヨセフは主人の激しい怒りを買い、一気に囚人という身分へと転落しました。それが今日の箇所です。
この主人は王の宮廷に仕える者でしたので、ヨセフを「王の囚人が監禁されている監獄」に入れることができたんですね。
そしてこのことが、ヨセフが王の前に立つというシナリオの最初のステップとなるのです。
私たちの目には、どう見ても悪いことのようにしか思えない・・。
しかし主は、そのようなことを通してご自身のご計画を成し遂げられるんですね。
その一番の型がイエス様の十字架の死です。
この死は、復活と全世界の人々の救いのために、どうしても必要なステップだったのです。
主を求める者にとっての最悪の事態・・そこには、主がおられるのです。
そして主は「そのことによって」良きことをされようとしておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。"
創世記 39章5節
ヨセフは奴隷として売られ、エジプト人の主人のものとなりますが、この主人は、主(神)が彼(ヨセフ)とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た・・これが前回の3節です。
それで主人はヨセフにその家の管理をさせ、全財産まで任せ切ります。(4節)
そうしたら主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家に関わるすべてのことを祝福されたというのです。
自分の全財産を任せるというのは、完全なる信頼です。
そしてその信頼は、ヨセフの神である主に対するものでした。
それで神である主は、この主人の財産のすべてを祝福されたというわけです。
次のようなみことばの約束があります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
家族の救いのための条件・・それは「主イエスを信じる」ことだというのです。
しかし「信じる」というのは、全財産を任せるほどの信頼を意味するんですね。
結局ここに表わされている祝福の秘訣・・それは「本当に主イエス・キリストを信頼する」ことだというわけです。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる・・というのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。"
創世記 39章2~3節
39章から再び、エジプトに奴隷として売られたヨセフの話に戻ります。
成功する者・・それは、やることなすこと確実に結果を出す者、というようなことなのでしょうか。
とにかくヨセフはそのことで特別に目立った存在だったようです。
それで「主人の家に住んだ」というのですから、奴隷としては異例の出世です。
そしてヨセフの主人は、「主が」ヨセフと共におられるのを見たというのです。
なぜヨセフの主人には、主がヨセフと共におられるということがわかったのでしょうか。
それは、ヨセフはその時点で、自分には今まで導いてこられ、共におられる神である主がおられるということを主人に話したからなのではないでしょうか。
そうでなかったら、主人はヨセフの能力を賞賛したことでしょう。
しかし主人が見たのは、ヨセフ自身ではなく、ヨセフを成功させてくださる主を見たというのです。
私たちは成功したとき、自分がやったのだと言ってその栄誉を自分に帰(き)そうとするのか、それとも神によるものだと言って神にその栄光を帰そうとする者になるのか・・どちらでしょうか。
ヨセフにはこのあと、とんでもない高い地位が与えられます。
それは今までの長い苦しみのあと、ただ主に栄光を帰すというという者にヨセフが変えられた結果なのではないでしょうか。
もしヨセフがこのことを自分の力であるかのように誇っていたら、ヨセフのその後の歩みは違うものとなっていたに違いありません。
主に栄光を帰すということ・・、それは自分の能力をはるかに超えた、神との歩みへの入り口となるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
GraceCafeたいむ・・しばらくアップされていないことに気付きました。
大変申し訳ありません。
バックナンバーはこちらからどうぞ。
http://ichiharablog.blog83.fc2.com/
今週は、【闇から差し込む光】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=7oca1G31hfE&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

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彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。"
創世記 39章2~3節
39章から再び、エジプトに奴隷として売られたヨセフの話に戻ります。
成功する者・・それは、やることなすこと確実に結果を出す者、というようなことなのでしょうか。
とにかくヨセフはそのことで特別に目立った存在だったようです。
それで「主人の家に住んだ」というのですから、奴隷としては異例の出世です。
そしてヨセフの主人は、「主が」ヨセフと共におられるのを見たというのです。
なぜヨセフの主人には、主がヨセフと共におられるということがわかったのでしょうか。
それは、ヨセフはその時点で、自分には今まで導いてこられ、共におられる神である主がおられるということを主人に話したからなのではないでしょうか。
そうでなかったら、主人はヨセフの能力を賞賛したことでしょう。
しかし主人が見たのは、ヨセフ自身ではなく、ヨセフを成功させてくださる主を見たというのです。
私たちは成功したとき、自分がやったのだと言ってその栄誉を自分に帰(き)そうとするのか、それとも神によるものだと言って神にその栄光を帰そうとする者になるのか・・どちらでしょうか。
ヨセフにはこのあと、とんでもない高い地位が与えられます。
それは今までの長い苦しみのあと、ただ主に栄光を帰すというという者にヨセフが変えられた結果なのではないでしょうか。
もしヨセフがこのことを自分の力であるかのように誇っていたら、ヨセフのその後の歩みは違うものとなっていたに違いありません。
主に栄光を帰すということ・・、それは自分の能力をはるかに超えた、神との歩みへの入り口となるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこでユダは、カナン人で名をシュアという人の娘を見そめて妻にし、彼女のところに入った。"
創世記 38章2節
ヨセフがエジプトに売られた話の次に、ヨセフよりずっと上の兄であるユダの子孫についての話が38章として挿入されています。
ユダとは、エルサレム12部族のなかでも最も祝福される家系、すなわちダビデ王から、さらにメシヤが出るその家系です。
しかしその最初の人ユダはヤコブやイサクの意向に反して、異邦人であるカナン人の女を妻とするんですね。(2節)
ユダには三人の子、エル、オナン、シェラがいました。
このユダ長男エルは「主の前に悪しき者であった」という理由で、命を絶たれてしまいます。
この時妻であったタマルは未亡人になるわけですが、兄が子を残さずして死んだら、弟が兄の分を果たすというのが当時の風習であり、後のモーセの律法にもそのことが記されています。
しかし次男のオナンは弟の分を果たそうとしなかったことにより、神はこのオナンの命も絶たれてしまいます。
タマルは三男シェラによって子孫を残さなければならないということになるわけですが、この子はまだ幼く、成人するまでは、タマルは「やもめ」のままであることになります。
そこでタマルがしたことが、考えられないようなことでした。
タマルは遊女を装って、ユダによって子を儲けようとしたのです。
結局、タマルの思惑通りになり、このタマルによってユダの王の家系に載るユダの子ペレツが生まれるのです。
この38章には、どぎつい出来事が次から次へと具体的に記されています。
神の計画と人々の愚かさや罪深さが、ここでも同時に、対照的に出てくるというわけです。
すべては、神のあわれみと恵みでしかないことが、ここでも示されているんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)