" エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。」"
創世記 47章6節
カナンの地からエジプトに向かったヨセフの家族は総勢70人でした。
ヨセフは彼らをゴシェンの地という、家畜を飼う者にとってはエジプトで最良の地へ導きました。
そして彼らがゴシェンに着いたのちに、ヨセフは彼らに会いに行き、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:27-29)
ヨセフが彼らをまずゴシェンの地に導いたのは、恐らく彼らがエジプト人たちに忌み嫌われる羊飼いだったからだと思われます。
ヨセフはまず兄弟の中から五人を連れてファラオのところにやってきて、自分たちの仕事は羊飼いなのですが、カナンの地は飢饉で牧草もなく、どうかしもべどもをごシェンの地に住まわせてくださいと、彼らに言わせます。(4節)
そこでファラオが言ったのが今日の箇所です。
元々嫌われるはずの者たちが、最良の地を与えられ、しかもファラオ直属の家畜の係という仕事も与えられたのです。
神はヨセフを奴隷に売られるという苦難に合わせ、そのヨセフを最悪の場所である監獄から、一夜にしてファラオに等しい権力を持つエジプトの支配者へと「よみがえらせた」のです。
そしてそのヨセフが仲介者となり、嫌われ者扱いをされるはずの羊飼いであるヤコブの全家は、あの飢饉の地から別天地とも言えるゴシェンの地に移され、その地での生活が保証され、王に仕える仕事まで与えられたのです。
ここにも「型」がありますね。
キリストは苦しみを受け、よみにくだり、三日ののちによみがえられて、天に上り、神の右の座に着かれた。
そして神はこの御子イエス・キリストを介して、元々滅びに向かう罪びとである私たちを天の御国の民とされ、主に仕える者とされたのです。
ヨセフ=キリスト、ファラオ=父なる神、忌み嫌われる羊飼い=罪びとの私たち、ファラオに願い出たヨセフの兄弟たち=罪を認め信仰告白をする人、ゴシェンの地=天の御国・・。
聖書はこの救い主イエス・キリストの「型」で満ちているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」"
創世記 46章3~4節
イスラエル(ヤコブ)は自分に属するすべての者を伴い、エジプトに向かいました。
その途中、べエル・シェバに来た時、ヤコブは父イサクの神にいけにえを献げました。(1節)
このべエル・シェバはアブラハムそしてヤコブの父イサクが長く住んだ地です。
その夜、神はイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけます。
そのときにヤコブが答えた返事は「はい、ここにおります。」でした。(2節)
はい、ここにおります・・。
それは、私はいつもあなたに目をとめ、あなたが仰られる事に耳を傾けています・・という意味です。
その時主がヤコブに語られたのが、今日の箇所です。
それはアブラハム、イサクに示され、またヤコブにも二度にわたって示された祝福・・「あなたを大いなる国民とする」・・でした。
そしてそれだけではなく、エジプトからこの地に再び連れ戻すという、最終的な神のご計画についても語られます。
そしてヤコブ自身については、「ヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう」と、ヤコブの地上における生涯についても主は語られたのでした。
それはまさに、至れり尽くせりの神からの祝福のことばでした。
神は私たちクリスチャンに対しても、私たちを大いなる国民「神の民」とされたこと、そして「天の御国」に連れ帰ること、また私たちの地上の生活においても、神は私たちの歩みを守り、その生涯を全うさせてくださること・・この至れり尽くせりの約束をしてくださっているのです。
あなたはそのことを、いつも確信をもって歩みたいと思いませんか。
「はい、ここにおります」・・実はこれがその秘訣なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。"
創世記 45章27節
ヨセフの兄弟達は、エジプトの王ファラオからの贈り物を携えて、父ヤコブのもとに帰ってきました。
兄弟達は、ヨセフがエジプト全土を支配する者となっていたという話を父ヤコブに聞かせるのですが、そんな話をヤコブは信じることができませんでした。
それでもヨセフが送ってくれた車を見て、ヤコブはようやく納得するんですね。(26節)
父ヤコブは元気付き、「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」と、その心は定まるのです。(28節)
ヤコブはヨセフに会ったわけではありませんでした。
しかし車を見て元気づいて、それが信じられないような話だけど行く事に決めたというわけです。
私たちはまだ天の御国を見たわけではありません。
しかしそこから送られてきたものを見て、それで天の御国に向けての歩み始めることを決心した者です。
送られてきた車・・それが神の御子キリストです。
エジプトから送られてきた車は、エジプトの繁栄が一目でわかるような車でした。それでヤコブは決心をすることができたのです
イエス・キリストの十字架と復活・・それは私たちのためにいのちを捨てるという神の愛と、よみがえりによる永遠のいのちを指し示すものでした。
私たちは、天の御国をまだ見ていませんが、それを確信させるものを見て、それを信じ、天の御国への歩みを踏み出したんです。
そしてその歩みを、今日も私たちは歩んでいるのです。
そのことを日々忘れないで、今日のひと時ひと時を過ごしたいものですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」"
創世記 45章24節
そして今日の箇所・・、それはヨセフがエジプトから兄弟達を送り出すときに言った言葉です。
・・道中、言い争いをしないでください。
それはこの一連の出来事について、兄たちがヨセフを奴隷に売り渡した当時の過去を振り返り、なぜこうなったのか、誰の責任でこうなったのかなどと言って言い争いなどはしないでくださいね・・ということなのではないでしょうか。
私たちは過去の失敗を、この後の歩みのために役立てるなら良いのですが、それを自分を責めるための材料にしてしまうことがあります。
あのとき、あんなことをしなければよかったのに・・など。
私たちは罪深く弱い者で、いくらでも失敗する者なのです。それが私たちについての大前提なんですね。
ヨセフと兄弟達の場合、神はヨセフの愚かさ、そして兄弟達の愚かさをも用いて、神はこの最善の計画を成就されたのです。
私たちクリスチャンには今、「全てを益としてくださる主」が共にいてくださるのです。(ローマ8:28参照)
私たちは実に、主とつながっていることによって、自分の愚かささえも恐れずに前進していくことができる者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」"
創世記 45章20節
ヨセフは兄弟達に、急いで父と家族をエジプトに連れてくるように言います。
さらに王であるファラオもヨセフの家族にエジプトの最良のものを与えると約束してくれました。
そして、父ヤコブと子供たちと妻たちのために車も用意して、迎えに行きなさいと・・。
その時にファラオが言った言葉が今日の箇所です。
カナンの地にいるヤコブと家族達にとって、それまでに蓄えた財産は大切なものでした。ですから、移住するとなるとできるだけのものを持って行こうとすることは当然予想されることでした。
それを見越してファラオはこのように言ったわけです。
家財に未練を残してはならない・・。
エジプト全土の最良のものは、あなた方のものだから・・と。
ヤコブと家族は、エジプトから送られてきた贈り物を見ました。
それは、家族を乗せてくるための車、ひとりひとりに晴れ着と末っ子のベニヤミンには銀三百枚と晴れ着5着。さらに父ヤコブには、エジプトの最良のものを積んだロバ十頭、穀物とパンと、父がエジプトに行く際のための食料を積んだ雌ロバ十頭・・。(21-22節)
ヤコブはエジプトに移住した際に与えられるものの一部をここに見たんですね。
それでなんの迷いもなくエジプトに行くことができたわけです。
これって、天の御国を約束された私たちの型のように思いませんか。
私たちクリスチャンは、神から送られた救い主、イエス・キリストを見て安心し、もう地上で蓄えた財産などには未練を残すことなく、天における最良のもの・・、すなわち永遠のいのちと天の住まい、そして神の驚くべき光の中に生きる者となることが約束されているのです。(第一ペテロ2:9参照)
ファラオは、ヤコブとすべての家族を招きました。
私たちの家族も、すべての者が天に招かれているのです。
だったら私たちは家族に、「さあ旅の準備をしよう」と言わなければなりませんね。
天にあるある最良のものは、あなた方のものだから・・。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。"
創世記 45章5節
ヨセフは、ユダが自分をベニヤミンの代わりに奴隷にしてくださいと懇願するのを見て、もう泣かずにはいられなくなって、周りにいた従者達を部屋の外に出します。
そしてヨセフは兄達に「私はあなた方がエジプトに売ったヨセフです」と、泣きじゃくりながら告白しました。(1-3節)
彼らは初めはポカンとしていましたが、目の前にいる王にも等しい人物とヨセフが、突然ひとつの人となったわけです。
そのときヨセフが言った言葉が今日の箇所です。
さらにヨセフは、飢饉はまだ5年続くことが神が示されてわかっていることを話し、こう言いました。
" ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。" (8節)
すなわち、あなた方は私を奴隷として売ったけれど、それは私たちのいのちを救うために、神がなさった事なのですと言ったのです。
心の中の悪がとんでもないことをしでかす・・、しかしその先には思いもよらない神のご計画があったというわけです。
この時ユダをはじめとする兄達は、策略などを巡らすことはせず、自分たちのことを包み隠さず告白し、私たちはあなたの奴隷となりますと言える人になっていました。(44:16)
そしてここから全てが始まり、今までの苦しみを一挙に吹き飛ばす喜びと希望へとつながった・・、それが44章から45章にかけての話です。
自分の愚かさや弱さ・・それは初めからあるもので、神はご存知です。
その私たちが自分を守ることなどは捨て、ただ神と人の前に自分を低くするなら、神のご計画はそこに現れ始めるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」"
創世記 44章4~5節
ヨセフは家の管理人に、兄弟達に食料を十分に与え、末っ子のベニヤミンの袋にはヨセフの銀の盃を入れるようと命じます。
そして彼らが出て行った後、ヨセフは家の管理人に彼らの後を追わせて・・、というのが今日の箇所です。
家の管理人は、袋の中から盃が見つかった者だけを奴隷とし、他の者は赦すと言います。
もちろん彼らはそんなことは身に覚えがないことなので、もしそのような者がいたらその者を殺してください、そしてもしそんなことがあれば自分たちはご主人様の奴隷となります・・と誓います。
ところが、ベニヤミンの袋の中からその盃が見つかるのです。(9-13節)
ヨセフはもう一度、自分を売った兄達を試したんですね。
彼らはベニヤミンと共に再びヨセフのところに戻ります。
ユダは、父ヤコブが上の子(ヨセフ)を失った後、ベニヤミンを自分の命のように愛していることを伝え、自分がベニヤミンの代わりに奴隷となることでどうか赦してくださいと懇願します。(44章全体を参照)
それは兄達の、末の弟ベニヤミンと父ヤコブに対して最大の誠意を尽くす姿でした。
それでヨセフはもう耐えきれなくなって、家の者達を外に出し、兄弟達に自分のことを打ち明けるのです。(45:1)
彼らは突然、自分たちを赦す弟のヨセフと再会したのです。
永遠の暗黒としか思えなかった状況が、突然晴れたのです。
主なる神は、そのような方法をもって私たちを取り扱われることがあるんですね。
あくまでも主を信じ、主と隣人(家族)に誠意を尽くして歩むこと・・それが主が私たちに求めておられることなのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。"
創世記 43章33節
ヨセフの家の管理人は、それまで留置されていた次男のシメオンを含む十一人の兄弟達を丁重に扱い、ヨセフの食卓に着かせます。
彼らは指定された場所に座りました。
そうしたら驚くべきことに、自分たち兄弟の年齢の順番通りに席が指定されていたというのです。
一同は互いに驚き合った・・。
それはヨセフが実の兄弟だったからわかったことではありますが、それは兄弟達にとっては、すべて見抜かれているという、どちらかというと畏怖の念さえ覚えた出来事だったのではないでしょうか。
自分たちしか知らないはずのことに従って、自分たちが取り扱われている・・。。
私たちの人生にも、このようなことって、ないでしょうか。
何か自分が知らない存在が自分のことをちゃんと見ていて、その通りに自分の歩みが導かれている・・。
神はあなたのことを、あなたが自分について知っている以上にご存知で、それに従ってあなたを取り扱っておられる・・。
しかもその上には、守りと祝福の約束があるというのです。
" (神は)あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。" (申命記8:16)
神は、あなたのことをはっきり見ておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。"
創世記 43章23節
ヨセフの兄達は、自分たちがヨセフの家に連れて行かれたので、とても恐れました。(17-18節)
彼らをヨセフの家に連れて行ったのは「ヨセフの家を管理する人」です。(16節)
それで彼らはこの人に、以前に行った時に袋に入れられていた銀について(42:26-28)正直に話し、それを返しに来たことと、さらに穀物を買う銀も持って来たことを伝え、なんとか自分たちのうちに非はないということを彼に伝えようとします。
そこで家を管理する人が答えたのが今日の箇所です。
彼は「安心しなさい、恐れることはありません」と、妙に確信に満ちたことを言います。
さらに彼は、「あなた方の父の神が、あなた方のために・・」という言い方をしています。
ということは、この管理人は「あなた方の父」すなわちヤコブを知っていて、その神のことも知っていて、その神があなた方のために・・袋の中に宝を入れてくださったのですと言った・・ということになります。
この管理人は、彼らがヨセフの兄弟であることをすでに知っていたんですね。
ですから一人だけ残されて、おそらく半年以上留置されていたシメオンも丁重に扱われていたに違いありません。
ヨセフはこの管理人に、自分に関わる全てのことを話していたのです。
ですから、ヨセフはこの管理人を全面的に信頼して、家の全てのことを任せることができたのではないでしょうか。
ここから教えられること・・それは、まず家の者すなわち家族に、自分についての全てを知ってもらうことこそが、その生活に平安と安定をもたらすということ・・なのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」"
創世記 43章18節
やっとのことで、ヨセフの兄たちは末っ子ベニヤミンを連れてエジプトに向かいました。
そして彼らはヨセフの前に立ちます。
その時ヨセフは自分の弟ベニヤミンを見て、盛大に食事会を開くことにしました。
それで彼らはヨセフの家に招かれるのですが、彼らにとってはそんなことは全く思いもよらないことで、そこには何かきっと落とし穴が待っているのだ・・と恐れを抱きます。
自分たちはきっと、ヨセフの家で銀のことで問いただされ、その場で捕えられ、結局奴隷とされてしまうのだ・・と。
彼らは起こってもいない「悪いこと」に心が捕えられ、恐れと不安でいっぱいになってしまったのです。
主はあなたに関わるすべてを成し遂げてくださる・・。(詩篇138:8参照)
それが約束であるのに、この先に起きると思われる「悪いこと」を勝手に想像して、恐れと不安に襲われてしまう・・。
そういうことって、おそらく私たちクリスチャンの誰にもあることなのではないでしょうか。
悪いことを考えてしまう・・。
それは神からくるものではありません。
絶望を持ち込むのはサタンです。
その罠にはまって、それに捕まってしまう・・。
私に関わるすべてを成し遂げてくださる主が共におられるのに・・。
私たちの努めは、ただひたすら主に目をとめることだけなんですね。
悪い考えに心を奪われる時間・・それは不要な時間なのです。
「信仰」に立ちましょう。
ここにのみ、望みがあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)