" ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」"
創世記 41章39~40節
ヨセフの進言は、ファラオとすべての家臣たちの心にかないました。(37節)
それでファラオが言ったのが今日の箇所です。
ファラオはヨセフが生ける神とともにいるのだということがわかったんですね。
ならば、このヨセフ以上にさとくて知恵ある者は、ほかにはいない、とファラオは確信したわけです。
「その人」ではなくて、その人の能力をはるかに超えた力がそこにあるということを、ファラオはヨセフの上に見たわけです。
そしてファラオは、だったらこの神とともにある人が国を治めるならば、それは誰が治めるよりも完全なものとなると考えたわけです。
それはすなわち、自分(ファラオ自身)が治めるよりも完全だという判断です。
そして王のこの判断は賢明であったことが、七年の豊作のあとに七年の飢饉が起きることになって分かるのです。
王は自分の判断力や能力を、ヨセフと共にある神に対する信仰の故に、いさぎよく捨ててしまったんですね。
これは私たちの信仰の「型」とも言うべきものです。
私たちはこのファラオのように、自分の判断力や能力、また恐れや不安のすべてに関して、この共にいて下さる神にその舵取りをおまかせするならば、飢饉すなわちどんな難局も、乗り越えて行けるのです。
難局に必要なのは、この全能の神に対する信仰なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)