" 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。"
出エジプト記 3章7節
燃える芝の中から、主はモーセに語られました。
わたしは・・わたしの民の苦しみを確かに見・・彼らの叫びを聞いた・・。
イスラエルの民がエジプトで奴隷とされてしまってから、ずいぶん年月も流れ、モーセが生まれた頃には生まれてくる男子はすべて殺害されるという、この時点で、すでに民の叫びは頂点に達していたのではないでしょうか。
生まれてきた男の子を川に流さなければならなかったのです。
その心の傷は癒やしがたいものとなったに違いありません。
しかし神がモーセに現れて、「彼らの叫びを聞いた」と言われた今日の箇所は、それからさらにモーセが成長し、エジプトの王から逃れ、家庭を持ち、子が生まれるという、叫ぶ民にとっては気の遠くなるような年月が経ってからでした。
このときになってはじめて、あなたはイスラエルの子らの叫びを聞かれたのですか、エジプト人の虐げている有様を今初めてご覧になったのですか、と問いたくなります。
しかし私たちは、この後に神がなされたイスラエルの民のエジプト脱出行のことを知っています。
200万もの民が一つ心となって、主が選ばれたリーダーに従い、今あるすべてを捨てて、主にかけて新しい旅路に出発したのです。
この長い忍耐の期間は、そのためだったということなのでしょうか。
主は言われました。
「わたしは彼らの痛みを確かに知っている」・・。
主はその痛みを知りながら、この長い時間を用いられた・・。
その痛みが大きければ大きいほど、それは主のご計画にとって必要な期間なのかもしれません。
少なくとも私たちは、もし痛みの中に置かれているなら、このことを主はご存じなのだということを忘れないようにしたいものです。
そしてこの耐えがたい痛みの先で、主は大いなることをなさるという信仰を捨てずに歩んで行きたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。"
出エジプト記 3章6節
モーセは燃える芝を横切って芝の茂みに立ち入ろうとしたとき、神である主はモーセに「ここに近付いてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と言われました。(5節)
そして続けて言われたのが今日の箇所です。
主はモーセに、ご自分がどのような方であるかを語られます。
わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である・・と。
モーセが幼い頃、おそらく父母から聞かされていたであろうその神が、実際に自分の前に現れたのです。
そしてモーセは、顔を隠しました。
預言者イザヤも、「高く上げられた御座についておられる主」を見たとき、このように言いました。
「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と。(イザヤ6:1-5)
「唇の汚れた者の間に住んでいる」とは、自分自身がそのような者であるということです。そしてその自分が万軍の主である王、すなわち「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」(イザヤ6:3) を、そのような汚れた者が見たということです。
モーセもそのような恐れをもって、始めは興味本位に燃える芝に足を踏み入れましたが、そこに立っている主の使い・・それは実は主ご自身でした・・が語られるのを見たとき、そこに恐れを感じたのです。
私たち(クリスチャン)は日常的に「神様」「神様」と主を呼び、その名を口にしていますが、その神は「聖なる、聖なる、聖なる、まことの神」なんですね。
私たちの心に今求められていること・・それは神に対する恐れなのかも知れません。
"主を恐れる人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。" (詩篇25:12)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。"
出エジプト記 3章4節
モーセはミディアンの地で、しゅうとであり祭司であったイテロ(2章ではレウレル)の羊を飼っていました。
彼はその群れを荒野(あらの)の奥まで導き、「神の山ホレブ」まで来ました。
すると主の使いが芝の茂みのただ中の、燃える炎の中に現れたというのです。(1-2節)
主の使いがそこに立っているのに、その場所の芝は燃えていました。
モーセは主の使いよりも芝が燃えていて、それが燃え尽きないことに目を奪われて、そこに近づいていきます。
そこで主はモーセに声をかけられます。「モーセ、モーセ」と。
それが今日の箇所です。
モーセは、そこが神が現れている場所であるにもかかわらず、ただ興味本位にそこに近付いていったわけです。
ところが神はそれをとどめられました。
「ここに近付いてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と。(5節)
はい、ここにおります・・、それは、「私は主(神)であるあなたが声をかけてくださっていることを知っています。」という意味です。
私たちは、直面している出来事の中に、神を認めず、ただ興味本位にその出来事を「知ろう」として近付くことがあります。
しかし神は、「ここに近付いてはならない」と言われることがあります。
そのとき私たちは、「はい、ここにおります」と答えることができるでしょうか。
私たちは、目の前の情景が「燃えて」いるとき、興味本位にそこに近付くのではなく、まず神の声に耳を傾けることを、ここでは教えているのではないでしょうか。
はい、ここにおります・・と。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。"
出エジプト記 2章24~25節
前回は、重労働による彼らの叫びは神に届いた・・というところでしたが、今日の箇所はそれに続くことばです。
神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた・・というのです。
神は「彼らの嘆きを聞いて」そのとき初めて、この契約を思い起こされたのでしょうか。
彼らが神に叫び求めなかったら、神はこの契約をお忘れになったままだったというのでしょうか。
さらにこのあとには、神はイスラエルの子らをご覧になって、それで彼らをみこころに留められた・・とあります。
この箇所から導き出せることは・・、
・私たちクリスチャンの上には罪の赦しと永遠のいのちの「契約」があります。
・しかしその契約は、私たちが神に叫び求めないと、神はそれを忘れてしまう?
・神は私たちを「ご覧になって」、それ次第で私たちをみこころに留められる?
このことは私たちに何を教えているのでしょうか。
確かに神と私たちの契約というものは、恵みのもとに確実にあります。
しかしこの地上の歩みにおいては、私たちが神を心を尽くして求めていかなければ、生ける神の恵みを実際に見ながら歩むことはできない・・ということなのではないでしょうか。
神に叫び求め、神を呼び求め、神に祈り求め続ける・・。
それは神が、今この地上を歩む私たちに求めておられることなのです。
"主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを。" (詩篇105篇 4-5)
生ける主を絶えず尋ね求めて歩むなら、この地上において、実際に主のみわざを見ながら歩む者とされるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。"
出エジプト記 2章23節
モーセがエジプトのファラオから逃れ、ミディアンの地で家族を持つようになってから何年も経って・・。それが今日の箇所です。
イスラエルの民は、モーセがエジプトで生まれたときよりも前から、すでに重い労働で苦しんでいました。
神はイスラエルの子らが重い労働でうめいているのをご存じでありながら、一体何年彼らをその状態のままにされておかれたのでしょうか。
どうしてもっと早く、神は彼らを顧(かえり)みられなかったのですか・・と問いたくなります。
ここでは「重い労働による彼らの叫びは届いた」とあります。
そのまま読むと、苦しい状況の中でうめいて、それでも頑張って今まで来て、このときになってはじめて彼らの叫びが神に届いた・・というように受け取れます。
ではそれまで、神は何もなさらなかったということでしょうか?
いえ、神はその遙か以前から・・少なくとも神があの赤子のモーセを水から救い出したときから、神はご自身の計画をもって彼らを顧みておられたということを、私たちは知っています。
イスラエルの民が苦しみのあまり、救いを求めて叫び続けていたそのとき・・、神はすでにその手を打たれていたんですね。
私たちが苦しみ、神に助けを叫び求めるとき、神はすでに手を打ってくださっている・・。
私たちはそのような信仰の目をもって、今の苦しみの時を見るべきなのではないでしょうか。
神は苦しみ叫び求めている私たちを、今すでに顧みてくださっているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。
彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。"
出エジプト記 2章21~22節
娘に良くしてくれた「エジプト人」のことを聞いた父は、その人モーセを家に招きます。
それで・・というのが今日の箇所です。
モーセは「心を決めて、この人のところに住むことにした」とあります。
父はモーセに娘ツィポラを与えました。
そして男の子が生まれるのです。
そしてモーセがその男の子に付けた名ゲルショムの意味は「異国にいる寄留者」だというのです。
モーセには「異国にいる寄留者」という思いがしっかりあったようです。
普通でしたら、このままこの地に骨を埋めよう考えるのが一般的な受け止め方かもしれません。
この状況って、私たちクリスチャンみたいだなと思わされます。
私たちはこの地にあっては寄留者・・本当は天の御国に国籍を持つ者が、この地にあってとりあえずは落ち着いて生活をしているけど・・、あるいはとんでもない状況の中に置かれているけど、それはこのまま続きそうな気がする・・。
しかしどのような状況にあっても言えること・・、それは神はクリスチャンであるあなたの上にご計画をもって「今」が与えられているということなんですね。
そして今の状況は、神のご計画の故に「変わる」のです。
神のご計画がある中で、自分が置かれた思いもしなかったその環境・・それは、無意味なものではないのです。
それはあなたがこの後に導かれる働きにふさわしい器となるため・・。
神はあなたにご計画を持っておられるのです。
今、あなたがどのような状況に置かれていたとしても、そのことは忘れないようにしましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

今週の「たいむ」は・・
【力なる主】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=8NAtiFNuoeM&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。
彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。"
出エジプト記 2章21~22節
娘に良くしてくれた「エジプト人」のことを聞いた父は、その人モーセを家に招きます。
それで・・というのが今日の箇所です。
モーセは「心を決めて、この人のところに住むことにした」とあります。
父はモーセに娘ツィポラを与えました。
そして男の子が生まれるのです。
そしてモーセがその男の子に付けた名ゲルショムの意味は「異国にいる寄留者」だというのです。
モーセには「異国にいる寄留者」という思いがしっかりあったようです。
普通でしたら、このままこの地に骨を埋めよう考えるのが一般的な受け止め方かもしれません。
この状況って、私たちクリスチャンみたいだなと思わされます。
私たちはこの地にあっては寄留者・・本当は天の御国に国籍を持つ者が、この地にあってとりあえずは落ち着いて生活をしているけど・・、あるいはとんでもない状況の中に置かれているけど、それはこのまま続きそうな気がする・・。
しかしどのような状況にあっても言えること・・、それは神はクリスチャンであるあなたの上にご計画をもって「今」が与えられているということなんですね。
そして今の状況は、神のご計画の故に「変わる」んですね。
神のご計画がある中で、自分が置かれた思いもしなかったその環境・・それは、無意味なものではないのです。
それはあなたがこの後に導かれる働きにふさわしい器となるため・・。
神はあなたにご計画を持っておられるのです。
今、あなたがどのような状況に置かれていたとしても、そのことは忘れないようにしましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。
そのとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がって、娘たちを助けてやり、羊の群れに水を飲ませた。"
出エジプト記 2章16~17節
モーセはエジプトのファラオから逃れ、「ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った」とあります。(15節)
ミディアンの地とは、シナイ半島を横断し、さらにその先の地で、エジプトからは300kmほどの距離があります。
モーセはそのくらいの距離をおそらく何も持たずに逃げ切ったのだと思われます。
そこに神の守りがあったのは言うまでもありません。
井戸での出来事・・、それは創世記に始まり、ここまで読んできた私たちには、なんとなく見慣れた光景のように感じます。
それは、アブラハムのしもべが主人の息子イサクのお嫁さん探しのために、アブラハムの兄弟ナホルのいる町でイサクの後の妻リベカに出会ったところ。
そして、ヤコブが兄エサウから逃れてナホルの子ラバンのところへ行ってヤコブの後の妻ラケルと出会ったところ・・。
井戸は、人々が生活のための水を得るために、どうしても集まってくる場所です。そしてこの井戸での出来事が、この後のモーセの40年間を決定付けたというわけです。
神は人との出会いを通して、私たちを新しい歩みへと導かれるようです。
悪い者の集まりに入っていけば悪に染まるし、光のあるところに入っていけば、そこが自分にとって新しい歩みへと導かれる場所となるわけです。
モーセにとってはこのときから、今までには味わったことのない、まったく新しい環境での生活が始まったのです。
そしてそれは、神の壮大な計画の下地が形成されるための新しい生活だったんですね。
ミディアンの祭司・・それは、どういう祭司なのか、明確ではありませんが、神が選ばれた器だったようです。
モーセはその祭司の家に身を寄せたのです。
私たちも光の交わりに積極的に入っていくなら、そこから全く新しい歩みが始まるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。"
出エジプト記 2章15節
モーセは同胞を打っているエジプト人を殺し、砂の中に埋めました。
そして翌日、今度は同胞のヘブル人同士が殴り合いの喧嘩をしているのに出くわします。
そこでモーセはその悪い方の人を正そうとして、彼に「どうして自分の仲間を打つのか」と言った・・とあります。(13節)
ところがそれに対して「誰がおまえを、指導者や裁き人として私たちの上に任命したのか」という、思いもよらない言葉が返ってきたのです。
モーセには、自分が王女の息子だという地位のこともあり、自分こそがこのヘブル人たちをまとめることができる者だという、自負があったのかもしれません。
しかしこのことばで、モーセはハッとさせられます。
しかもそれに続いて、「おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか」という、思ってもいない言葉が耳に飛び込んできたのです。(14節)
前の日のことは誰にも知られないようにしたはずだったのに、今やみんなが知っている・・?
一瞬にしてモーセの立場は完全に逆転します。
しかも昨日のことはヘブル人の間だけではなく、すでにファラオまでが知っていて、自分の命は狙われているのだということをモーセは知ります。
それが今日の箇所です。
一夜にしてモーセは逃亡者となっていました。
すべてを失ったのです。
しかしこれが神のご計画の始まりだとはモーセ自身、知るよしもありません。
全くの暗闇への転落・・それは死を選ぶしかないと思えるような状況です。
しかし神を信じる者にとって、それは未知の旅への出発なんですね。
すべてを失ったその先に・・主はおられるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)