" こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。
彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。"
出エジプト記 2章11~12節
日が経ってモーセは立派な大人となり、王女の息子として町中(なか)にも出て行ける身分となりました。
「彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た」とあります。
彼は奴隷となっているヘブル人たちが自分の同胞であることは知っていましたが、その苦役の様を初めて自分の目で見て、愕然(がくぜん)としたわけです。
それは自分の身を痛めつけられている光景に等しかったのかもしれません。
「打っている」という言葉と、モーセがエジプト人を「打ち殺した」という語は同じ動詞で、そこには殴打(おうだ)を繰り返すという意味があるそうです。
モーセは同胞が今にも死にそうになっているのを見、誰もいないのを見計らって同胞を打っているエジプト人に対し、同じように殴打を繰り返し、とうとう殺してしまったというわけです。
それは、自分の血はヘブル人の血だという認識から来たものでした。
モーセのこれからの歩みのはじめは、その生まれ持っての「血」をはっきり意識したところから始まったというわけです。
ことの始まり・・それは自分が何者であるかをはっきり認識するところから始まるのかもしれませんね。
私たちクリスチャンは、この世からあがない出されて、神の国の民とされた者です。
そのように自分が何者であるかをはっきり認識するとき、そのとき初めて私たちの本当の新しい歩みが始まるのかもしれません。
神の御手の中でのモーセの新しい歩みは、実にここから始まったのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)