" 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。"
出エジプト記 2章24~25節
前回は、重労働による彼らの叫びは神に届いた・・というところでしたが、今日の箇所はそれに続くことばです。
神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた・・というのです。
神は「彼らの嘆きを聞いて」そのとき初めて、この契約を思い起こされたのでしょうか。
彼らが神に叫び求めなかったら、神はこの契約をお忘れになったままだったというのでしょうか。
さらにこのあとには、神はイスラエルの子らをご覧になって、それで彼らをみこころに留められた・・とあります。
この箇所から導き出せることは・・、
・私たちクリスチャンの上には罪の赦しと永遠のいのちの「契約」があります。
・しかしその契約は、私たちが神に叫び求めないと、神はそれを忘れてしまう?
・神は私たちを「ご覧になって」、それ次第で私たちをみこころに留められる?
このことは私たちに何を教えているのでしょうか。
確かに神と私たちの契約というものは、恵みのもとに確実にあります。
しかしこの地上の歩みにおいては、私たちが神を心を尽くして求めていかなければ、生ける神の恵みを実際に見ながら歩むことはできない・・ということなのではないでしょうか。
神に叫び求め、神を呼び求め、神に祈り求め続ける・・。
それは神が、今この地上を歩む私たちに求めておられることなのです。
"主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを。" (詩篇105篇 4-5)
生ける主を絶えず尋ね求めて歩むなら、この地上において、実際に主のみわざを見ながら歩む者とされるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)