" わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 7章5節
神である主はモーセに、ファラオは心を頑(かたく)なにしてモーセの言うことを聞かないこと、そしてそのファラオの上に主ご自身が御手を伸ばし、イスラエルの民をエジプトの地から導き出すということを、これまでにも何回か語ってこられました。
今回もまたそのことを語られ、さらに言われたことが今日の箇所です。
エジプトは、わたしが主であることを知る・・。
200万もの民がエジプトから脱出するなら、イスラエルの民はこの方こそ自分たちの父祖の神、今までその話を聞いてきた、まさにその神であることを見せつけられるわけですが、このことで主は、当のイスラエルの民だけではなく、エジプトも「わたしが主であることを知る」ことになるのだと言われたのです。
出エジプトという出来事において、エジプトは裁かれる側です。
その裁かれる側のエジプトの王およびその民にも、神である主はご自身を現され、まさしくこの方こそが、天地万物の創造主である正真正銘の神であることを示されるのだというのです。
このことを見ると、黙示録の中のある箇所を思い出します。
終わりの時に、さらに心を頑なにして神を認めようとしなかった民の叫びの声です。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(ヨハネの黙示録 6:16-17)
神は終わりの時に至って、この出エジプトの出来事のように、心を頑なにする人の上にも主はご自身を現されるというのです。
この出エジプトの時代から、今に至るまで、そして終わりの時に至るまで、神はすべての人にご自身を現される・・、それでこの方こそがまことの神であることを知ることになる・・それが神がなさることなんですね。
主を恐れ、主を信じ、そして私たちに真実を尽くしてくださるこの神である主を信じて、歩んでいこうではありませんか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。"
出エジプト記 7章1節
モーセは自分を信用しなくなってしまったイスラエルのかしらたちと、また自分の言うことに全く耳を貸そうとしないファラオに向き合わなければなりませんでした。
そんなモーセの思いにもかかわらず、主はモーセにこれからするべきことをどんどん告げていくのです。
それでモーセは主に「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」と申し上げます。(6:12)
そして6章30節でも、モーセが同じことばで主に訴えている場面が出てきます。
この尻込みするモーセに主が言われたのが今日の箇所です。
あなたをファラオにとって神とする・・、それは主がモーセを、神の完全な代理人として保証したということです。
神の言葉を人々に伝える人・・それを聖書では預言者と言います。
預言者は神の言葉を伝えるにあたって、自分の思いをそこに差し挟む余地は全くありません。
モーセはその預言者として神から任命されたというわけです。
「わたしは口べたなのです」と言って尻込みするような人物を、神はどうして選ばれたのでしょうか。
口べた・・それは、自分の考えや意見をそこに差し挟むという発想が全くないということです。
こうしてモーセは、紅海の海を分けて、イスラエルの民をエジプトから救い出すという、大きなみわざを神の代理人として成し遂げるのです。
自分の思い、計画を捨てるなら、神の大いなるみわざがそこに現わされる・・、これはどうも原則のようです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。"
出エジプト記 7章1節
モーセは自分を信用しなくなってしまったイスラエルのかしらたちと、また自分の言うことに全く耳を貸そうとしないファラオに向き合わなければなりませんでした。
そんなモーセの思いにもかかわらず、主はモーセにこれからするべきことをどんどん告げていくのです。
それでモーセは主に「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」と申し上げます。(6:12)
そして6章30節でも、モーセが同じことばで主に訴えている場面が出てきます。
この尻込みするモーセに主が言われたのが今日の箇所です。
あなたをファラオにとって神とする・・、それは主がモーセを、神の完全な代理人として保証したということです。
神の言葉を人々に伝える人・・それを聖書では預言者と言います。
預言者は神の言葉を伝えるにあたって、自分の思いをそこに差し挟む余地は全くありません。
モーセはその預言者として神から任命されたというわけです。
「わたしは口べたなのです」と言って尻込みするような人物を、神はどうして選ばれたのでしょうか。
口べた・・それは、自分の考えや意見をそこに差し挟むという発想が全くないということです。
こうしてモーセは、紅海の海を分けて、イスラエルの民をエジプトから救い出すという、大きなみわざを神の代理人として成し遂げるのです。
自分の思い、計画を捨てるなら、神の大いなるみわざがそこに現わされる・・、これはどうも原則のようです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。"
出エジプト記 6章9節
前回の7節のことばに続いて、主はさらに「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」(8節) と言われ、モーセはその神の言葉を直接イスラエルの子らに告げたのですが、彼らはモーセのせいで今までよりもさらに苦しい労役を課せられることになってしまったということで頭がいっぱいでした。
そんな彼らには、モーセのことばに耳を傾ける余裕など、全くありませんでした。
彼らはモーセの杖によって、神の奇跡を見、このモーセこそは神から遣わされた者であると信じ、モーセに従おうと、一旦は心に決めたはずなのですが・・。(4:30-31)
せっかく信仰を持ったのに、状況に心を奪われて神がなさろうとしていることに目が行かなくなってしまう・・。
なんだか私たちの信仰生活そのままを見ているようです。
しかしそんな状況は織り込み済みであると言わんばかりに、主はモーセに次々となすべきことを命じられます。(10節以降)
主は私たちがどのような者であったとしても、そのご計画しておられるみわざは確実に遂げられるお方であることを、ここでは見せられているようです。
この後イスラエルの民はエジプトを出た後も、事あるごとにその信仰を試されることになります。
結局、彼らは大きな奇跡をもってエジプトから脱出させてくださった神に対して、不信感ばかりになってしまい、この出エジプトした世代は約束の地に入れず、次の世代が入ることになるのです。
主の救出のみわざに私たちが与(あずか)るために求められているのは、神を恐れ、あくまでも神である主を信頼して歩むことであることを、ここでは教えてくれているようです。
神に従うときに出くわす悪いこと・・、それは私たちの信仰が試されているときなのです。
そのときを、信仰が増し加わるときとさせていただきたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。"
出エジプト記 6章7節
神である主はモーセに、「わたしがしようといていることは今にわかる」と言われました。それが前回の箇所です。(1節)
それに続いて、神は改めて、これからなさろうとしていることについて、モーセにもう一度確かめるようにして言われました。
それは、わたしの名は主(ヤハウェ) であり、今まではいろいろな名でわたしを示してきたが、それはあなた方の父祖アブラハムを導き、寄留の地であったカナンをこの後あなたに与えると約束したその主である・・と。
そしてわたしはエジプトで奴隷となっているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い出した・・と。
アブラハムのときからその民を導いてきたわたしが今、このエジプトの苦役からあなた方を「伸ばされた腕と大いなるさばきによって」贖(あがな)うのだ・・と。(2-6節)
そしてそれに続いて言われた主のことばが、今日の箇所です。
わたしはあなた方を取ってわたしの民とする・・。
わたしはあなた方の神となる・・。
あなたがたを苦役から導き出す・・。
これを私たちクリスチャンに重ねて読むと・・。
わたしは、アブラハム以来具体的にその民を導いてきた聖書に記されているその神「主」である。
そしてわたしは、この世からあなた方を取り出してわたしの子としたのだ。
こうしてあなたがたは、神としてわたしをあがめ、礼拝するようになる。
わたしは、あなたを罪の奴隷、死の恐れから解き放ち、約束の天の御国にあなた方を導き入れるのだ・・と。
出エジプト記自体が、私たちの救いの大いなる「型」であることは、これから何度も何度も見て行くことになると思います。
主は世の初めから変わらず、今に至るまで、そして世の終わりとその後の永遠に至るまで、変わらない主なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」"
出エジプト記 6章1節
ファラオに打ちたたかれたイスラエルのかしらたちは、モーセとアロンのところに来て、あなたたちのせいでこんなひどい状況になってしまった・・、自分たちはこれで完全にファラオに憎まれる者となってしまったではないか・・と詰め寄ります。(5:21参照)
それでモーセは主にもとに行き、そのことを主に訴えて言います。
あなたはこの民をこんなにひどい目に遭わせて・・、そんなことのためにあなたは私を遣わされたのですか・・、あなたは全然動こうとなさらないではありませんか・・と。(5:22-23参照)
それに対して主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今にわかる・・と。
さらに主が言われたのは、ファラオは自分の意思によってではなく、自分ではどうしようもなくなって初めて、この民をエジプトから追い出すことになるのだということでした。
ここにも「神のなさり方の型」を見ることができます。
それは、神はご自身を現されるためには、私たちを苦しみの中をさえ通らされることがあるということです。
では苦しむ私たちを、神は顧みられておられないのでしょうか。
いいえ、神はその叫んでいる私たちが、ほかの誰よりもそこにはっきりと神を見る者とされるという、大きな恵みを与えようとしておられるということが、このあとのエジプト脱出の様をみていくと、ますますはっきりと見えてくるのです。
愛は・・すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。(コリント人への手紙第一 13:7)
私たちは、私たちをいのちをかけて愛してくださっているこの主を愛し、信頼し、決して希望を捨てずに歩むことを、ここでは教えられているのではないでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。"
出エジプト記 5章19節
5章から、いよいよモーセとアロンはエジプトの王ファラオのもとに出かけて行き、神の言葉を告げるという話に入っていきます。
しかしファラオは聞いたこともないイスラエルの神の言うことなど、聞くはずがありません。
モーセとアロンはそれにもひるまず、「主にいけにえをささげさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」と迫ります。
それでファラオはさらに心を固くし、イスラエルの民に今まで以上に過酷な労働を課すという、思ってもみなかった方に事態は展開していきます。(1-13節)
イスラエルの民はレンガ作りを毎日させられていたのですが、その材料の藁(わら)は今後供給されず、それさえも自分で集めて今までと同じ量のレンガを作れという、ファラオの要求は法外なものでした。
そしてそれに応えることはとてもできないので、ファラオはイスラエルの民のかしらたちを集めて打ちたたきます。(14-18節) そして今日の箇所です。
これは悪いことになった・・。
イスラエルの民を救い出してくださるために神はモーセとアロンを遣わされたのだと民は聞いて、民はそれを喜び、神を礼拝した・・のに(4章) 、事態は悪くなる一方だったわけです。
それでかしらたちはモーセとアロンに会い、あなたたちのせいでこんなことになってしまったと、彼らを責めます。(21節)
主が語られ、そしてそれに従って一歩踏み出したとき、「悪いこと」が起こり始めた・・。
なんと、これが神の大いなるみわざが始まる最初の出来事だったのです。
主のなさることは、私たちが頭で考えられる・・あるいは願っているような段取りを遙かに超えているんですね。
主を信じて、ただ前進していきましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【あなたとひとつとなってくださる神】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=oQcZox1iuJI&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)