" 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』"
出エジプト記 3章16~17節
神がモーセに語られたこと・・、それは「わたしはわたしの民を顧みているのだということを、この民に伝えなさい」ということでした。
そしてイスラエルの長老たちを集めて、彼らに「主は必ずこの苦しみから解放し、約束の地へあなた方を導き上ると言われている」ということを伝えよと、することと語る言葉の具体的な指示までもされています。
もし自分がこのような状況の中に立たされたとしたら、イスラエルの長老たちが集まってくるだろうか、彼らは自分のことばに耳を貸すだろうか、彼らは自分を信用するのだろうか・・と、様々な不安がよぎるに違いありません。
しかし主はモーセに、すること語ることを細かく指示し、またその結果までをも語られているんですね。「彼らはあなたの声に聞き従う」と。(18節)
イスラエルの民をエジプトから導き出すなど、そんな大仕事は自分にできるはずがない・・。
当然のことです。だから恐れが来るわけです。
ここで必要なのは、そんなことは自分にできるわけがないということを、先ず認めるということなのではないでしょうか。
主はそれをあらかじめ語られ、その先までを保証されているのです。
このことを解決するのは主である・・。
そこから目を離すなら、すぐさま恐怖と不安の中に引きずり込まれてしまうというわけです。
成し遂げられるのは主である・・。
これが信仰の基本なんですね。
主は、私たちが神のもとに帰るためのすべてを成し遂げてくださったのです。
私たちは何もしていません。ただ信じたから今、神の子とされてこの世を歩んでいるのです。
この基本の上に、私たちは常に立つべきなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)