" すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。"
出エジプト記 4章13~14節
主はモーセに「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」とまで言われました。(12節)
それなのにモーセは主に「どうかほかの人を遣わしてください」と言ってしまうのです。
すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がった・・とあります。
そこまで言われておいて、ああどうかほかの人を遣わしてくださいという言う・・、それはモーセが心底、自分にはそのようなことをする器ではないという思いが、このミディアンの地の生活の中で本当に身についてしまったということなのでしょうか。
しかしながら主は、モーセが「自分にはできる。やっとその時が巡ってきた」などと思うような人物であったら、おそらく彼を用いることはしなかったのではないでしょうか。
主は、このときが来るまでに、十分な時間をかけて、モーセを「自分には本当に何もできない」ということを疑いすらしない者へと変えられていたんですね。
王女の子としてエジプトにいたとき、モーセはそんな人物ではなく、自分がこの民を何とかしようと考えるような人物であったにもかかわらず、今はそのような思いは微塵(みじん)もなくなっていたというわけです。
確かに主は今のように尻込みするモーセに怒りを燃やされました。
しかし主はそれでモーセに罰を下されたのではなく、さらにモーセに兄のアロンという助け手を送り、それで主の務めを果たすことができるようにと、モーセを励ましたのでした。
私たちが主に用いられるには、時があるんですね。
モーセは自分で全く意識しないほどに本当に謙虚で、自分が主に用いられる器になるなど、これっぽっちも思わないような者へと変えられていたのです。
これで、主の大いなるみわざが人々に現される準備が整ったというわけです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)