
今週の「たいむ」は・・
【あなたとひとつとなってくださる神】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=oQcZox1iuJI&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。
そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」
すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。"
出エジプト記 4章24~26節
神がモーセを殺そうとされた?
このあとのツィポラ(モーセの妻)の話から、この出来事は「割礼」に関することであることがわかります。
モーセはこのあと神の代理人として、主の大いなるみわざに関わる仕事を始めるためにエジプトに向かっていました。
しかしモーセは、主がアブラハムに命じていた割礼を受けていなかったんですね。
主の怒り・・それは、主のためにこれから大きな仕事をしようとしているモーセに対して、それにふさわしい準備がされていないということに対する怒りだったのではないでしょうか。
そのとき、祭司の娘であったモーセの妻ツィポラがこの割礼を行ったというわけです。
しかしそれはモーセに対してではなく、モーセの息子にしたというのです。
年をとっていたモーセにとって、旅の途中で割礼をするというのは、そこから回復するのにどれだけ時間がかかるかわからないということから、ツィポラは息子ゲルショムに割礼を施し、その包皮をモーセの両足・・それは性器を表します・・に付けてモーセの割礼の代わりにしたというわけです。
今の私たちに置き換えると、この割礼とはなんでしょうか。
それはある意味で洗礼と言えるかもしれませんが、それ以上の意味での割礼・・それは神の前に完全にへりくだり、ひれ伏す者となるという意味なのではないでしょうか。
神が特に大きなみわざのために人を用いられるとき、神はその人を徹底的に砕かれて、いちいち神に意見を申し立てるような者ではなく、神が用いやすい器として、まずその人を整えられるんですね。
今のあなたの上にあるその試練は、主の前に完全にひれ伏す者となるための試練なのかもしれません。
あなたは神の大いなるみわざのために働く器として、今はその最終段階に入っており、いよいよ出て行くそのときは間近かなのかもしれませんね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」
すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。"
出エジプト記 4章24~26節
神がモーセを殺そうとされた?
このあとのツィポラ(モーセの妻)の話から、この出来事は「割礼」に関することであることがわかります。
モーセはこのあと神の代理人として、主の大いなるみわざに関わる仕事を始めるためにエジプトに向かっていました。
しかしモーセは、主がアブラハムに命じていた割礼を受けていなかったんですね。
主の怒り・・それは、主のためにこれから大きな仕事をしようとしているモーセに対して、それにふさわしい準備がされていないということに対する怒りだったのではないでしょうか。
そのとき、祭司の娘であったモーセの妻ツィポラがこの割礼を行ったというわけです。
しかしそれはモーセに対してではなく、モーセの息子にしたというのです。
年をとっていたモーセにとって、旅の途中で割礼をするというのは、そこから回復するのにどれだけ時間がかかるかわからないということから、ツィポラは息子ゲルショムに割礼を施し、その包皮をモーセの両足・・それは性器を表します・・に付けてモーセの割礼の代わりにしたというわけです。
今の私たちに置き換えると、この割礼とはなんでしょうか。
それはある意味で洗礼と言えるかもしれませんが、それ以上の意味での割礼・・それは神の前に完全にへりくだり、ひれ伏す者となるという意味なのではないでしょうか。
神が特に大きなみわざのために人を用いられるとき、神はその人を徹底的に砕かれて、いちいち神に意見を申し立てるような者ではなく、神が用いやすい器として、まずその人を整えられるんですね。
今のあなたの上にあるその試練は、主の前に完全にひれ伏す者となるための試練なのかもしれません。
あなたは神の大いなるみわざのために働く器として、今はその最終段階に入っており、いよいよ出て行くそのときは間近かなのかもしれませんね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」"
出エジプト記 4章22~23節
主はあらかじめモーセに語られました。
「わたしが彼(ファラオ)の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」・・と。
それに続いて主がモーセに言われたことばが今日の箇所です。
出エジプト記は、イスラエルの民が水(紅海)を通って奴隷であったエジプトから救い出され、荒野の旅を経て、乳と蜜の流れる地カナンに入るという話です。
それは私たちが御子イエス・キリストの名によって、洗礼の水を通して罪の奴隷であったこの世からあがない出され、苦しくともこの世の歩み(荒野の生活)が守られ、最後には天の御国の民となるという、「救い」を指し示す話の代表と言ってもよいものです。
そして今日の主の短いことばは、主がなさろうとしている救いみわざの要約と見ることもできるわけです。
イスラエルはわたしの子、わたしの長子・・
それは私たちクリスチャンは主が選ばれた「主の子」であって、天にある最上の祝福を受け取る者(長子)だという意味です。
わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ・・
それは私たちがこの世というサタンの支配下にあるところから救い出され、天のまことの父を見上げて礼拝する者となることを示しいるわけです。
もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの長子を殺す・・
あなたとはエジプトに象徴されるサタンです。
主は、サタンに付き従うすべての悪の軍勢を滅ぼし尽くし、最後にはサタンそのものをも完全に滅ぼされることをここでは示唆(しさ)しているわけです。
神のご計画・・それは悪の片鱗が微塵も残っていない天の御国、パラダイスを作ることなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」"
出エジプト記 4章22~23節
主はあらかじめモーセに語られました。
「わたしが彼(ファラオ)の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」・・と。
それに続いて主がモーセに言われたことばが今日の箇所です。
出エジプト記は、イスラエルの民が水(紅海)を通って奴隷であったエジプトから救い出され、荒野の旅を経て、乳と蜜の流れる地カナンに入るという話です。
それは私たちが御子イエス・キリストの名によって、洗礼の水を通して罪の奴隷であったこの世からあがない出され、苦しくともこの世の歩み(荒野の生活)が守られ、最後には天の御国の民となるという、「救い」を指し示す話の代表と言ってもよいものです。
そして今日の主の短いことばは、主がなさろうとしている救いみわざの要約と見ることもできるわけです。
イスラエルはわたしの子、わたしの長子・・
それは私たちクリスチャンは主が選ばれた「主の子」であって、天にある最上の祝福を受け取る者(長子)だという意味です。
わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ・・
それは私たちがこの世というサタンの支配下にあるところから救い出され、天のまことの父を見上げて礼拝する者となることを示しいるわけです。
もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの長子を殺す・・
あなたとはエジプトに象徴されるサタンです。
主は、サタンに付き従うすべての悪の軍勢を滅ぼし尽くし、最後にはサタンそのものをも完全に滅ぼされることをここでは示唆(しさ)しているわけです。
神のご計画・・それは悪の片鱗が微塵も残っていない天の御国、パラダイスを作ることなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)