" 主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」"
出エジプト記 6章1節
ファラオに打ちたたかれたイスラエルのかしらたちは、モーセとアロンのところに来て、あなたたちのせいでこんなひどい状況になってしまった・・、自分たちはこれで完全にファラオに憎まれる者となってしまったではないか・・と詰め寄ります。(5:21参照)
それでモーセは主にもとに行き、そのことを主に訴えて言います。
あなたはこの民をこんなにひどい目に遭わせて・・、そんなことのためにあなたは私を遣わされたのですか・・、あなたは全然動こうとなさらないではありませんか・・と。(5:22-23参照)
それに対して主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今にわかる・・と。
さらに主が言われたのは、ファラオは自分の意思によってではなく、自分ではどうしようもなくなって初めて、この民をエジプトから追い出すことになるのだということでした。
ここにも「神のなさり方の型」を見ることができます。
それは、神はご自身を現されるためには、私たちを苦しみの中をさえ通らされることがあるということです。
では苦しむ私たちを、神は顧みられておられないのでしょうか。
いいえ、神はその叫んでいる私たちが、ほかの誰よりもそこにはっきりと神を見る者とされるという、大きな恵みを与えようとしておられるということが、このあとのエジプト脱出の様をみていくと、ますますはっきりと見えてくるのです。
愛は・・すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。(コリント人への手紙第一 13:7)
私たちは、私たちをいのちをかけて愛してくださっているこの主を愛し、信頼し、決して希望を捨てずに歩むことを、ここでは教えられているのではないでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)