" モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。"
出エジプト記 9章29節
七番目の奇跡・・激しい雷を伴う巨大な雹・・。
これにはファラオも参ったようで、ファラオはモーセとアロンをを呼び出し、「わたしが間違っていた」「主が正しく、私と私の民が悪かった」「主に祈ってくれ」「おまえたちを去らせる。もうここにとどまってはならない」(27-28節) と、完全降伏の様相です。
それに対してモーセがファラオに言ったことばが今日の箇所です。
今回の雹による災害については、翌日とかではなくて、町を出たらすぐに自分は主に手を延べ広げるから、そのとき即座に雹はやむのだと、モーセは宣言します。
そしてそれは、この地が主のものであることをあなた方が知るためだ・・と。
モーセは「この地(エジプト)も主のものである」とその王ファラオの前で大胆に宣言したんですね。
結局モーセが言ったことは、この大自然に起こるすべての現象も、神である主の御手の中にあり、あなたが王だと思っているこのエジプトの地も、元々はこの神があなたに与えたのであり、この神が許しているのであなたはこのエジプトの王となれているのだ・・ということでした。
モーセは、この神である主こそが、万物をその手に収められるまことの神であって、ほかに神はいないのだ・・と大胆に宣言したのです。
しかし自分が助かることしか考えられなくなっているファラオに、恐らくそんなことばは、心の奥まで届くことはなかったのではないでしょうか。
私たちは、聖書の最初の一行目には「はじめに神が天と地を創造された」と書かれているのを知っています。
しかし果たして、この短い一節がどれほど私たちの内に響いて伝わっているでしょうか。
「はじめ」があって、そこに天と地を創造された絶対的な唯一の神という存在があって、いまのすべてがあるのだ・・というところから、この神の書は始まっているのです。
私たちは、このファラオのようにではなく、もっと心を引き締めて、この神の言葉に向き合う必要があるのかも知れませんね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。"
出エジプト記 9章20~21節
七番目の奇跡・・それは「雹(ひょう)」でした。
それもただの雹ではなく、火が雹の中をひらめき渡ったというのです。
それは稲光の真っ只中に立たされ、そこに非常に激しい雹が降ってくるという、恐ろしい光景でした。
この雹によって家畜は死に、木も打ち砕いたとあります。(23-25節)
ところで、神はこの警告をファラオとその民に与えたとき、家畜と野にいるすべての者を避難させよと言われているんですね。
しかし民の反応は、二つに分かれました。それが今日の箇所です。
この両者の違い・・、それは「主のことばを恐れた者」と「主のことばを心に留めなかった者」です。
主のことばを恐れた者は言われた通りに、しもべたちも家畜も家に避難させました。一方、「主のことばを心に留めなかった者」がいたというのです。
そして主が言われたとおり、野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜は、みな雹に打たれて死にました。
ここにも聖書全体が言おうとしていることの小さな「型」が見られます。
聖書は警告しているのです。
今あなたを愛する父なる神のもとに立ち返りなさい・・。
神は御子キリストによってあなたが立ち返る道備えをされたのだから、それを受け取りなさい・・。
さもなければあなたは苦しみの中で滅びることになる・・と。
エジプトの民は、それがどんな人であるかということには関係なく、ただ主を恐れ、主の言葉に聞き従った者が守られたのです。
この二つの道・・それは資格とか運命とかによって決まることではなく、あなたが自分で決めることなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。
しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。"
出エジプト記 9章15~16節
これはファラオに対する主のことばです。
ファラオは、エジプトの民の家畜が疫病で大量に死に、しかもイスラエルの民の家畜は一頭も死んでいないのを見たにもかかわらず、さらに心を硬くし、民を去らせることをしませんでした。
それで主は、続けざまに第六番目の奇跡を起こされます。
それはモーセがかまどのちりを天にまき散らすと、そのちりは人と家畜につき、うみの出る腫れ物となるというものでした。
それでもなお、ファラオは心を頑なにし続けます。(8-12節)
そこで主は、ファラオに対して言われました。
「わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ」 そうでなければ「わたしのすべての災害を送る」と。
そしてそれは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである」・・と。(13-14節)
さらに主は、ファラオに対して決定的なことばを告げます。
それが今日の箇所です。
それは、「あなたのいのちはわたしの手の中にあって、わたしがそうするならばあなたのいのちは即座に消え去るのだ」という意味です。
しかし今はファラオをさらに生かすことによって、「わたしの力をあなたに示し、わたしの名を全地に知らしめるのだ」と、神は言われたわけです。
このファラオと神の一連のやりとりを見ていると、私たちと神との関係を思い起こします。
それはすなわち、「自分が折れるか、自分の思いを守るか」にかかっているということです。
人が神に立ち返るということは、大きな奇跡の一つですが、しかしそこで起きることと言えば、それは自分が折れるという単純な一つのことなのです。
神はこのようにして、いつも私たちに迫っておられるんですね。
そしてそのたったひとつのスイッチによって、人の運命は変わるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。
しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」"
出エジプト記 9章3~4節
ファラオはアブの大群にほとほと悩まされ、とうとう降参し、私のために祈ってくれとモーセに言います。
そしてモーセは祈り、アブの大群は一匹もいなくなったのに、主が言われた通り、ファラオはまたもや心を硬くして、民を行かせることはしませんでした。
そして五番目の奇跡です。
それはエジプトのすべての家畜の上に「非常に重い疫病」が起こるというものでした。
今日の箇所は、主がそれを予告して言われたことばです。
主はアブの奇跡の時に続いて、この疫病もイスラエルの子らの家畜には何の影響もないと言われました。そしてその通りになります。(6節)
イスラエルの民は、神である主が自分たちを特別に扱われていることを目(ま)の当たりにします。
そしてそれが最後の奇跡まで続き、その極めつけがあの紅海の水が分かれて、イスラエルの民はそこを行き、後から入ってきたエジプト軍は、水が元に戻って彼らをすべて飲み込んでしまう、という出来事でした。
その後イスラエルの民は、荒野の旅に出て様々な壁にぶち当たります。
しかし、彼らは神である主が自分たちを特別に扱われ、守ってくださることを知っていたので、その信仰は少しも揺らぐことはありませんでした・・、と行きたいところですよね。
ところが、彼らはこのすべての主のみわざを忘れて、荒野で主に対する不平を言い始めるのです。
前回のタイトルは「学習しない人」でしたが、このイスラエルの民もファラオと同様、学習しない民だったんですね。
主はまことの神であり、私たちの叫びをご存じであり、私たちの盾となり、岩となってくださるお方なのです。
その主が私たちを、決して見放さず見捨てないと言われて、私たちに伴ってくださるのです。
私たちが忘れてならないのは、そのことなんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」"
出エジプト記 8章28節
ファラオはとうとうモーセに降参します。
神にいけにえをささげても良いから、この国の中でせよ・・と。
しかしモーセは、荒野に三日の道のりを行ってそれをしなければならないと告げます。(26-27節)
だったら、遠くへ行くのでなければ良い。私のために祈ってくれ・・。
これが今日の箇所です。
そして主はモーセのことばの通りにされ、アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れ、いなくなりました。(29-31節)
ところがファラオはまたも心を硬くし、民を去らせなかったというのです。(32節)
降参したのに、また心を頑(かたく)なにするという、学習しない人ファラオ・・。
とは言え、それは私たちの姿そのままを映し出しているような気もします。
神は絶対なるお方。そしてその神は私たちを愛し、私たちに良きものを与えてくださろうとしておられるお方です。
なのに私たちはその大きな存在を忘れて、ただひたすら自分の願うことを求め、結局満足できないでいる・・。
でもそれは、「神を信じていない」ということに他ならないわけです。
神は私たちに必要なものを、一つ一つ順番に与え、そして最後にはどのようにされようとしておられるかというと、私たちを「神の聖さに与(あずか)る者」とされるというのです。(ヘブル12:10参照)
神は私たちに必要な良いものから、順番に与えてくださるお方なのです。
学習しましょう。その主が今も、あなたと共にいてくださっているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。
わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖(あがな)いをする。明日、このしるしが起こる。』」"
出エジプト記 8章22~23節
四番目の奇跡はエジプトの地がアブの群れで満ちるというものでした。
アブに噛まれると二三日後には、激しい痛みを伴います。
ブヨは体長数ミリですが、アブは大型のハエといった感じです。
これが全土を覆うというわけです。
しかし主は、イスラエルの民がいるゴシェンの地だけを特別扱いをすると言われたのです。これが今日の箇所です。
そしてこのことは、十番目の奇跡に至るまで続くのです。
ここで主が言われている
「わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする」
「こうしてあなた(わたしを信じない者=ファラオ)は、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る」・・。
それは実は「終わりの時」に起きることとして黙示録に記されていること、そのまんまなんですね。
終わりの時に際してイエス様の救いを信じて神のもとに帰ったクリスチャン・・それが「わたしの民」です。
そして最終的には、この民を永遠の滅びから救い出し、天の御国の民としてご自分のものにする・・、それが「贖う」ということの意味です。
しかも、頑なに神を拒み続けた民は、この終わりの時の最後になって、本当にこの方こそまことの神であったということを知る・・というのです。
今日の主のことば、そのままなのです。
アブの群れは、ファラオの家とその家臣の家、またエジプト全土に満ち、その地は荒れ果てましたが、ゴシェンの地だけは全くの無傷でした。(24節)
これは終わりの時の「型」だというわけです。
これから後に起きることに対する警告が、ここにすでに書かれているのです。
神である主は「ご自分の民」を罪の世界から救い出し、約束の地に導き入れる・・そのことを知らせるために聖書が与えられているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
前回と同じ箇所です。
ある方から、次のような感想をいただきました。
・・古代エジプトって多神教?だから、ファラオも(神というものを)信じているのかと思っていました・・と。
モーセの時代はほぼBC1400年くらいです。
この年代を調べると、アメンホテプ三世という王の名が出てきます。
この時代の人々は、地方神アメンを崇拝していたようで、それが太陽神としての属性を帯びるようになったとのことです。(ウィキペディアより)
どちらにしてもこれらの神は自然崇拝から生まれた神、すなわち天地万物を作られた聖書の神からしてみれば、太陽という被造物を拝む偶像崇拝だったわけです。
ですから、この出エジプト記に出てくるファラオも、この偶像崇拝をしていたことは間違いありませんし、その神を信じていたのだと思われます。
前回私はこのように書きました。
・・王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです・・。
エジプトの王はその神を崇拝していたのかも知れませんが、その神は言うまでもなく、王の意向に反することを言う神である可能性は非常に低いわけです。
偶像の神とは、人の考えで作られたものであって「神」ではないのです。
しかし聖書の神は、人の都合に合わせて言うことが変わってくるような神ではないことは、言うまでもありません。
呪法師たちが言った「これは神の指です」ということばは、自分たちが拝んでいる神とは違う、まことの神がここにその御力を現されたのです・・という、恐れを伴った畏怖の念でのことばだったに違いありません。
この「聖書のことば」シリーズでは、まことの神のことを「神」とか「神である主」とかいうことばで言い表していますが、それは言うまでもなく「全知全能の、天地万物を造られた、しかも私たちのような小さな存在の一つ一つを愛される、唯一のまことの神」という意味が込められているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
前回と同じ箇所です。
ある方から、次のような感想をいただきました。
・・古代エジプトって多神教?だから、ファラオも(神というものを)信じているのかと思っていました・・と。
モーセの時代はほぼBC1400年くらいです。
この年代を調べると、アメンホテプ三世というエジプトの王の名が出てきます。
この時代の人々は、地方神アメンを崇拝していたようで、それが太陽神としての属性を帯びるようになったとのことです。(ウィキペディアより)
どちらにしてもこれらの神は自然崇拝から生まれた神、すなわち天地万物を作られた聖書の神からしてみれば、「太陽という被造物」を拝む偶像崇拝だったわけです。
ですから、この出エジプト記に出てくるファラオも、この偶像崇拝をしていたことは間違いありませんし、その神を信じていたのだと思われます。
前回私はこのように書きました。
・・王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです・・。
エジプトの王はその神を崇拝していたのかも知れませんが、その神は言うまでもなく、王の意向に反することを言う神である可能性は非常に低いわけです。
偶像の神とは、人の考えで作られたものであって「神」ではないのです。
しかし聖書の神は、人の都合に合わせて言うことが変わってくるような神ではないことは、言うまでもありません。
呪法師たちが言った「これは神の指です」ということばは、自分たちが拝んでいる神とは違う、まことの神がここにその御力を現されたのですという、恐れを伴った畏怖の念でのことばだったに違いありません。
この「聖書のことば」シリーズでは、まことの神のことを「神」とか「神である主」とかいうことばで言い表していますが、それは言うまでもなく「全知全能の、天地万物を造られた、しかも私たちのような小さな存在の一つ一つを愛される、唯一のまことの神」という意味が込められているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
川が血になり、蛙が全土を覆い、今度は三番目の奇跡、「地のちりがブヨになる」というものでした。(16-17節)
ブヨとは体長数ミリの小さいもので、まさに土のちりがそのままブヨになったという感じです。
刺されると半日後には、激しいかゆみに悩ませられます。
それがエジプト全土を覆ったというのですから、たまったものではありません。
今度はさすがに呪法師たちも土のちりをブヨにするということはできませんでした。(18節) そこで呪法師たちがファラオに言ったことばが今日の箇所です。
これは神の指です・・。
呪法師たちはこの奇跡の出所を「神」と認めたわけです。
しかしファラオの心は頑なになった・・。
ファラオは「王」でした。
王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです。
私たちすべての者は罪びとであると、聖書は言っています。
それは他でもない、私たちすべての者は、絶対にほかの誰にも譲ることのできない「心の王座」という、固い城壁で守られている部分があるということを指摘するものです。
それが砕かれないことには、その上におられる存在、すなわちまことの神を認めることなど決してできないというわけです。
神を認める・・、それはある種の降参、また敗北なのですが、実はそれこそが「賢明さ」という世界への入り口、すならち知恵の始まりだと聖書は言っているのです。
"知恵の初め、それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。" 詩篇 111篇10節
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章15節
ファラオはモーセに降参して、モーセに祈るように要請します。
それでモーセは、ファラオが言ったとおりに翌朝、主に叫び、蛙を取り除いていただくように祈りました。
果たして主はモーセの祈りを聞かれ、地上にあふれるほどにいた蛙はみな死に絶え、「地は悪臭で満ちた」とあります。(8-14節)
ところが・・。それが今日の箇所です。
ファラオは「一息つけると思うと」とあります。
一息つくとは、言ってみれば「我に返る」ということです。
それまでファラオは、蛙のことで全く気持ちの余裕がありませんでした。
自分がモーセの神に祈ってくれと言ったなど、いったん我に返ったときには、あれは本当の自分ではなかった・・といった感覚なのでしょうか。
ファラオは我に返った瞬間、この神を認めないという、最初の状態にあっという間に戻ってしまったわけです。
モーセに祈るように求め、一見降参したかのように見えたわけですが、結局ファラオはこのモーセの神を信じたというわけではなかったんですね。
このファラオは、言ってみれば「罪びと」の象徴です。
人は何か切羽詰まったことがあれば神を信じるというところに立とうとするわけですが、それがなくなってしまうと、いとも簡単に「神不在」の以前の自分に戻ってしまう・・、それが「罪びと」です。
そんな身勝手な人(私たち)がクリスチャンになった・・。
それは、我に返ったら、私は罪赦され、神の子とされているんだ・・というところに返る者になったということです。
実にそれは「人」の一大変革なんですね。
元々の自分にはそんな力は全くないのに、神の御力によって、私たちは古い自分に死に、新しいいのちをいただいて歩む者とされたのです。
神の奇跡によって、私たちは「新しい者」へと変えられたのです。
そのことをいつも覚え、主の御名をほめたたえ、歌いつつ歩む者とされたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)