" 主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。"
出エジプト記 11章3節
神である主は最後の十番目のわざわい(奇跡)について、モーセに語られました。
そのときにはファラオは「本当に一人残らず」イスラエルの民をエジプトから追い出すことになる・・と。
そしてイスラエルの民に対しては、「男は隣の男に、女は隣の女に、銀や金の飾り物を求めよ」と言われたというのです。(1-2節)
隣とは、エジプトのことです。
これまでのファラオとモーセのやりとりは言うまでもなく、エジプトの民衆にとっての最大の関心事でした。
モーセはファラオと対等に渡り合い、しかもファラオに圧勝し続けているのです。
そして今日の箇所・・。エジプト人たちはもはや、イスラエルの民に対し畏敬の念を抱くほどの好意を持つようになり、モーセはエジプトの民とそしてファラオの家臣たちにまで、たいへん尊敬されていた・・、すなわち英雄として慕われるほどになっていたというわけです。
しかしながら、実際にモーセによってもたらされた奇跡はそのエジプトの民を散々苦しめていたはずです。
そして最後の十番目の奇跡・・それは、ファラオの長子(長男)からすべての民の長子、そしてエジプトの家畜のすべての初子(ういご)がみな死ぬというものでした。
民はどんな気持ちだったのでしょうか。
ファラオが頑なであるが故に、自分たちの上に、そしてエジプトの国全体に恐ろしい災いを招いてしまった・・。
彼らは、「われわれはみな死んでしまう」と言い、イスラエルの神を恐れ、その民をせき立てるようにして追い出したとあります。(12:33)
彼らは、自分たちもこのまことの神の民であったらどんなに心強いかと思ったのではないでしょうか。
私たちは、この恐るべきまことの神のことを知るにつれ、この神が愛と哀れみの神であることを知り、そしてその神のもとに帰っていった者です。
私たちは今や、この完全なる神の民となったのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」"
出エジプト記 10章28節
ファラオは漆黒の闇にはとても耐えられず、再びモーセを呼んで言います。
家族もみな行って主に仕えるが良い・・、ただ家畜は残しておけ・・と。(24節)
しかしモーセは、家畜の中から最上のものを選んで主にささげるので、すべての家畜も共に行かなければならない・・と答えます。
それでファラオはとうとう頭にきてしまって、というのが今日の箇所です。
このファラオについて、ここまでずっと語られてきたことがあります。
それは「主がファラオの心を頑なにされた」ということでした。
それはファラオが頑なになることによって、さらに大きな奇跡を人々に見せ、それによって全能の主の名を全地に知らしめるためだっだというのです。(9:16)
ならばファラオは自分の意思などとは何の関係もない、ただの操り人形だったのでしょうか。
ならば例えば、人が神を信じるときにも、それは神が初めから決めておられたことで、自分で決めたことではないということになるのでしょうか。
しかし私たちにしてみれば、それは確かに「自分で決めた」ことです。
ところが神の側から言うなら、神が最初からこの器を選んでいたということになるわけです。
神は、私たちが主体的に心の行動をすることによって、すなわち自分で決めることによって、神と人との関係ができるようにされたのです。
私たちは、それについて注文をつける立場にはないのです。
私たちは被造物であり、神が私たちを造られた神なのですから・・。
ファラオにとっては、それまでのすべてのことは自分で決めた行動でした。
しかしそのすべては、神の御手の中で、神のご計画のために、神がなされたことだったというわけです。
私たちはどんなにあがこうと、この神の御手の中にあり、そしてしかも、その愛の中にあるんですね。
神の御手の中で、私たちはひれ伏し、その神を喜ぶ者となる・・、これが神の御心なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。"
出エジプト記 10章23節
ファラオはモーセの前に降参したかのように見えたのに、いなごが去ったのを見て再び心を頑なにします。
そこで主はモーセに「闇がエジプトの地の上に降りてきて、闇にさわれるほどにせよ。」と命じられました。(21節)
それで・・というのが今日の箇所で、これが九つ目の奇跡となります。
真っ暗闇というのは、その空間にあるはずのものが全く見えない状態ですが、そのことさえ感じることのできない「さわれるほどの闇」・・。
それは想像するだけでも恐ろしいものです。
エジプトの民は「自分のいる場所から立つこともできなかった」というのです。
"地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。" (創世記1:2-3)
光というのは「被造物」なんですね。
私たちは太陽の恵みを受けて、地上で暮らしています。
しかしこの太陽というものも、神には初めからあった概念としての「光」のために神が創造されたものであって、そもそも光自体が神による被造物だというわけです。
神は「あるかないか」決めることのできるお方なんですね。
いのちがあるかないか、心の内に光があるかないか・・。
ここでは「イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」とあります。
光は神から来るのです。。
そしてこの創造主なる神を覚えること・・、それこそが知識の初めなんですね。
" 主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。" (箴言1:7)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。
どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」"
出エジプト記 10章16~17節
ファラオは、イスラエルの民が全員出て行くなどということは到底認めることができず、結局いなごの害(8番目の奇跡)を招くことになってしまいます。
モーセが祈ると、エジプト中にいなごがあふれ、せっかく雹の災害を免(まぬが)れた作物が全部食い尽くされてしまい、エジプトから緑が消え失せてしまいました。
それで・・というのが今日の箇所です。
おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ・・。
今度こそファラオは、本当に神の前に悔い改めたように見えますが、残念なことにこの後も、モーセの祈りによっていなごが去ると、ファラオは再び心を頑なにするんですね。(20節)
滅びることと救われることの狭間であることを予感しつつも、それでもなお頑なになる・・。
私たちの体に刻まれている「罪の性質」・・それは、自分を守るという性質です。
だから頑なになるわけですが、本当に自分を守りたいなら、自分を捨てよ、すなわち自分の守りを解除せよ・・というのが、神の救いの論理です。
大事なのは、自分を守ることではなく、いのちの源、力の源、そしてあなたを完全に赦すお方を認めるということなんです。
しかしながら、自分を守ろうとする「肉の性質」がそれを邪魔しようとするわけです。
私たちクリスチャンも主を認めて、主の前に降参しておきながら、自分の肉の性質と主の御心との狭間(はざま)に置かれて、結局は主とは逆の滅びに向かう選択をしてしまうこと・・、よくあることなのではないでしょうか。
だからこそ、私たちはその都度思い起こさなければならないのです。
主の死はこの私のためにあるのだ・・ということを。
私たちは、私たちのために死んでくださった主によって、生きる者とされたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【あなたの心を埋めるもの】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=OBrYmSpYYWY&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」
モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」"
出エジプト記 10章8~9節
ファラオの家臣たちは、今度はいなごの害だという話を聞いて恐れ、ファラオに進言します。
このままではエジプトは滅んでしまいます。どうか彼らの言うことを受け入れてください・・と。(7節)
そこでファラオはモーセとアロンを連れ戻し、彼らが礼拝のためにエジプトを出ることを許します。
しかしよくよく話を聞けば、この民全員がここを出ていくという話ではありませんか・・。それが今日の箇所です。
それでファラオは、そんな話はとても受け入れられないと言って、再びモーセとアロンを追い出してしまうのです。
ファラオにとって、奴隷であるイスラエルの民というのは莫大な財産なんですね。
結局それを捨てるという選択肢はなく、8番目の奇跡、いなごの大群を招くことになってしまうのです。
私たちは、自分の財産と自分のいのち・・どちらを取りますかと言われるなら、躊躇こそするかも知れませんが、やはりいのちを取らざるを得ないわけです。
しかしファラオは、財産を取り続けたというわけです。
この話を永遠という物差しの上で語られる「福音」に重ねて見るならば、自分の財産とは 「自分」あるいは「自我」のことです。そしてそれよりも大切なはずの「自分のいのち」というのが永遠のいのち、すなわちまことのいのちのことであるわけです。
あなたはどちらを取りますか?・・そう問いかけているのが福音です。
人は、今持っている財産すなわち「自我」を捨てることができず、結局永遠のいのちを失ったままになってしまう。
これこそがこのファラオのパターン、すなわち私たちの「型」なんですね。
" 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。" (マタイ10:39)
まことのいのちをいただくためには、捨てなければならないものがあるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" いなごが地の面をおおい、〜 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。"
出エジプト記 10章5~6節
モーセとアロンは心を頑なにしたファラオのところに再び出かけていって、主によって告げられた8番目の奇跡について警告します。
それはいなごが地の表を覆い、先の雹(ひょう )の害を免れた穀物や野に生えている木もみな食い尽くす。そしてそのいなごは全エジプトの家に満ちる・・というものでした。
そしてその様は「あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである」というのです。
このことば・・、なんだか今の私たちには聞き慣れたことばのような気がしませんか。
今のこの地球は温暖化ならぬ、沸騰化しているということばまで使われ始めました。
現に日本に限らず、様々な災害が起きたときに、その土地のお年寄りがテレビに出てきて、こんなのは自分が生まれてから今まで見たことがないと言っている・・、そんなニュースが日常的になってきているような気がします。
エジプトを脱出して約束の地カナンに入るこの出来事・・、神の十の奇跡、そしてその後の出エジプトの際に紅海の水が分かれたという出来事・・それらはみな、「今までに見たこともなかったようなこと」だったわけです。
イエス様は言われました。
"いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。" (マタイ24:32)
今はまさにこの「夏」すなわち「終わりの時」を目前にして、「葉が出てくる」すなわちその前兆を見せられている、まさにそのときなのではないでしょうか。
今はもはや、世のことに心を奪われているときではない、身を引き締めて主に近付いて歩むことに専念するときであるという警告のように感じるのは、私だけでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。"
出エジプト記 10章3節
ファラオはモーセに降参したはずでしたが、災いが過ぎ去ると結局もとに戻ってしまい、心を頑(かたく)なにして、イスラエルの民を行かせようとはしませんでした。
そのファラオに対して、主はこう言われたわけです。
あなたはわたしの前に、身を低くしていないよね・・と。
身を低くする・・、それは形としては頭を上げなかったりひれ伏したりするというものですが、こと心の中に関しては、私たちもこのファラオのように、低くしたつもりでいながら、本当は低くなっていないということ・・、なんとなく思い当たることはないでしょうか。
私たちには、心にまで、うわべと本音があるようです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節) とありますが、それは、主が見られるのは心の本音の部分だということです。
もともと肉の性質を持った私たちは、自分をかばうという性質を持っているので、自分で自分の心の奥を見るということはとてもむつかしいのです。
ところが、私たちクリスチャンには「キリストの心」である聖霊が与えられているというのです。(第一コリント 2:16 参照)
私たちは自分の心の奥までを見ることはなかなかできませんが、共にいてくださる聖霊=御霊(みたま)は、私たちのすべてを見て下さるんですね。
この御霊に寄り添うとき、私たちも自分の心の内にある本当のことを知ることができるのです。
そのときに、頑なな私たちに「素直な悔い改め」がやってくるのです。
主は私たちにかかわるすべてのことを、成し遂げてくださるのです。(詩篇138:8)
このいつも共にいてくださる御霊に、力を尽くして、目を注いでいたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 10章1~2節
七度の軌跡を見せられたにもかかわらず、ファラオは再び心を頑なにします。
そのとき主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
わたしがファラオとその家臣たちの心を硬くしたのだと、主は言われました。
それはこのあとも、彼らの中でしるしを行うためだ・・と。
また、そのすべてのしるしをイスラエルの民が見て、それを子孫に語り継げ、こうしてわたしが主であることを人々が知る・・、そのためにわたしはこれを行うのだと、主は言われたのです。
イスラエルの民はエジプトで四百年近くも奴隷の身として苦しみ、出エジプトにおいて神を見ました。
出エジプトをしたイスラエルの民は、四十年間荒野の生活を強いられ、神の御手によって約束の地を占領しました。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見ました。(マタイ4:16) キリスト来臨です。それ以来全世界の無数の人々が神に立ち返りました。
さらに、世の終わりには七年間の大艱難時代がやってきます。そのとき、神はこの苦しみの中でご自身を表され、この最後のチャンスに多くの人々が神に立ち返るというのです。
これらすべてのことの中にはみな、人々の苦しみがあります。そして神は、その苦しみの中にご自身を現されるということのようです。
そうでなければ人は神を認めようとしないことを、主はご存じなのかも知れません。
世の始めから終わりまで、神のなさること・・特に苦しみや悲しみはみな、人々が「わたしが主であることを知る」ためだというわけです。
人々を苦しみの中に置き、そこで人は神のみわざを見、このまことの神に立ち返り、永遠のいのちの中に救い上げられる・・これが神のなさることの「型」であるようです。
神である主を知る・・そこからすべてが始まるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」"
出エジプト記 9章30節
前回の箇所に続いてモーセがファラオに言ったことばです。
ファラオもその家臣も、あなた方はまだ神である主を恐れていない。そのことが私にはよくわかる・・と。
モーセがファラオに向かって確信をもって、このように言えた理由・・、
それは彼らが「自分がこの神の手から逃れることしか考えていない」というところにとどまっていて、その先に行き着くべきところ、すなわち、この主に助けを求めるべきだというところには全く思いが至っていないということが、見て取れたからではないでしょうか。
結局ファラオは、モーセの神を認めたにも関わらず、それが絶対者である神であり、すべての者がひれ伏すべき方だという概念は、どこにもなかったわけです。
ファラオはモーセに、「今度は私が間違っていた。主が正しく私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ」(27-28節) と、さも降参したかのようなことを、家畜の疫病の時に続いて二度も言っているわけですが、だからと言って自分がこの神の前にひれ伏すなどということは、頭の片隅にもなかったというわけです。
私たちクリスチャンは、身の回りに起こる様々な出来事を、神との関係の中で考えます。
そしてその都度、神と自分との関係について新しいことを教えられていくわけですが、結局行き着くところは、「神を本当に信じる」ということなんですね。
それは、絶対者である神を信じるということです。
世の中の人は、自分を助けてくれるのならこの神に頼んでもいいと思ったりもするわけですが、それができないなら信じたってしょうがない・・。
結局その神を恐れ、この神の前にひれ伏すなどという概念は、微塵もないわけです。
一番大切なこと・・それはこの神を信じ、まことの父として絶対的にいてくださるこの方を恐れ、この方の前にひれ伏すことなんですね。
「あなたは髪の毛一本さえ、白くも黒くもすることはできないのです」(マタイの福音書 5:36から)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)