" モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。
ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。"
出エジプト記 7章20~21節
いよいよここから、出エジプトに至るまでの神の十の奇跡の始まりです。
最初はモーセの杖でナイル川の水を打つことによって、ナイルの水はすべて血に変わる・・というものでした。
ところで、このあとの22節には「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした」とあります。
この前後の文章をそのまま読むと、エジプト全土にわたって血があった(21節)のなら、この呪法師たちが血にした水はどこにあったのか、という疑問がわいてきます。
私たちの聖書の読み方・・、それは聖書のことばをそのまま受け取るというものです。
ですからそこに矛盾した二つの記述がある場合には、その両方が正しいという観点で、どのような状況だったのかを推測するということになるわけです。
初めにナイルの水を杖で打ったのはモーセです。
しかしその前の時点で、主はモーセに対し、アロンに命じて川や水路、貯水池の上に杖を伸ばように言いなさいと命じておられます。
そしてその結果として「エジプトの全土で木の器や石の器にも血があるようになる」と主は言われています。(19節)
要するに、モーセがファラオの前でナイルを打ったときに血となったのは、ナイル川の水で、「ナイル川の魚は死に、川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった」・・(21節)
それでもまだ、水路や貯水池の水はアロンが杖を伸ばすまではまだ血になっていなかったということが考えられるわけです。
それで呪法師たちも、目の前にあった水を血に変えるという秘術を見せたという話で、呪法師たちの秘術はナイルの水が血に変わるという大きな奇跡には遙かに及ばない小さなものに過ぎなかった、・・ということで、話の整合性は取れることになります。
「聖書は神の霊感によって記されている」ということをそのまま受け止めるなら、そこにさらに具体的な状況が見えてくるというわけです。
聖書の記述は「そのまま受け入れるに足るもの」なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)