" ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙(かえる)を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」"
出エジプト記 8章8節
ナイル川の水が血になって一週間。その後その水がどうなったかは記されていません。
今度はその水から蛙を、ファラオの家の寝台の上にまで上らせ、家臣とエジプトの民の上に這い上がらせるとファラオに警告せよと主は言われます。
果たしてアロンが水の上に手を伸ばすと、蛙が這い上がってきてエジプトの地を覆いました。(6節) 二度目の奇跡です。
そして今度も呪法師たちが水を血にした時のように、同じことをした・・と記されています。(7節)
これも、水が血になった時と同様に、小規模なものだったのでしょう。
すでに蛙がエジプトの地を覆っていたのですから・・。
考えてみれば、ファラオは呪法師たちに蛙を除くように命ずればよいのに、同じように蛙を這い上がらせたというのですから、なんとなく変な感じがします。
イスラエルの神に対抗する力はどこにもなかったというわけです。
それでファラオはモーセとアロンを呼び寄せて・・というのが、今日の箇所です。
ファラオはすでにイスラエルの神に降参していたわけです。
しかしこの祈りが聞かれ、一息つくと、ファラオは再び心を頑なにします。(15節) そして残りの8回の奇跡を見る際にも、ファラオはその度(たび)に心を頑なにするのです。
結局ファラオは主に降参しながらも、主への恐れというものが全くなかったんですね。
それは、「神を神と思っていない」ということです。
神が私たちの創造主なのですから、私たちはそのほんのひとかけらしかわかっていない者なのです。
ファラオにとっての「神」は、自分が考える範囲の中の神に過ぎませんでした。
しかし、このイスラエルの神は、それを遙かに超えた、恐るべき全知全能の主なる神なんですね。
このまことの神は、私たちがまずその前にひれ伏すべきお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)