" 主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 10章1~2節
七度の軌跡を見せられたにもかかわらず、ファラオは再び心を頑なにします。
そのとき主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
わたしがファラオとその家臣たちの心を硬くしたのだと、主は言われました。
それはこのあとも、彼らの中でしるしを行うためだ・・と。
また、そのすべてのしるしをイスラエルの民が見て、それを子孫に語り継げ、こうしてわたしが主であることを人々が知る・・、そのためにわたしはこれを行うのだと、主は言われたのです。
イスラエルの民はエジプトで四百年近くも奴隷の身として苦しみ、出エジプトにおいて神を見ました。
出エジプトをしたイスラエルの民は、四十年間荒野の生活を強いられ、神の御手によって約束の地を占領しました。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見ました。(マタイ4:16) キリスト来臨です。それ以来全世界の無数の人々が神に立ち返りました。
さらに、世の終わりには七年間の大艱難時代がやってきます。そのとき、神はこの苦しみの中でご自身を表され、この最後のチャンスに多くの人々が神に立ち返るというのです。
これらすべてのことの中にはみな、人々の苦しみがあります。そして神は、その苦しみの中にご自身を現されるということのようです。
そうでなければ人は神を認めようとしないことを、主はご存じなのかも知れません。
世の始めから終わりまで、神のなさること・・特に苦しみや悲しみはみな、人々が「わたしが主であることを知る」ためだというわけです。
人々を苦しみの中に置き、そこで人は神のみわざを見、このまことの神に立ち返り、永遠のいのちの中に救い上げられる・・これが神のなさることの「型」であるようです。
神である主を知る・・そこからすべてが始まるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)