" モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。"
出エジプト記 10章3節
ファラオはモーセに降参したはずでしたが、災いが過ぎ去ると結局もとに戻ってしまい、心を頑(かたく)なにして、イスラエルの民を行かせようとはしませんでした。
そのファラオに対して、主はこう言われたわけです。
あなたはわたしの前に、身を低くしていないよね・・と。
身を低くする・・、それは形としては頭を上げなかったりひれ伏したりするというものですが、こと心の中に関しては、私たちもこのファラオのように、低くしたつもりでいながら、本当は低くなっていないということ・・、なんとなく思い当たることはないでしょうか。
私たちには、心にまで、うわべと本音があるようです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節) とありますが、それは、主が見られるのは心の本音の部分だということです。
もともと肉の性質を持った私たちは、自分をかばうという性質を持っているので、自分で自分の心の奥を見るということはとてもむつかしいのです。
ところが、私たちクリスチャンには「キリストの心」である聖霊が与えられているというのです。(第一コリント 2:16 参照)
私たちは自分の心の奥までを見ることはなかなかできませんが、共にいてくださる聖霊=御霊(みたま)は、私たちのすべてを見て下さるんですね。
この御霊に寄り添うとき、私たちも自分の心の内にある本当のことを知ることができるのです。
そのときに、頑なな私たちに「素直な悔い改め」がやってくるのです。
主は私たちにかかわるすべてのことを、成し遂げてくださるのです。(詩篇138:8)
このいつも共にいてくださる御霊に、力を尽くして、目を注いでいたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)