" そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」"
出エジプト記 14章11~12節
イスラエルの民が去ったことを知らされたファラオとその家臣たちは、再び心を頑なにして、すべての戦力をそこに注いで、イスラエルを追いました。
一方、「イスラエルの子らは臆することなく出て行った」とあります。(8節)
イスラエルは雲の柱に導かれて、自信をもってエジプトを出て行ったのです。
ところがいざエジプト軍が後ろから迫ってくるのを見、さらに前方は海で逃げ場がないことを知ると、途端にその口からひどく不信仰なことばが出てきます。
それが今日の箇所です。
この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方が良かったのだ・・。
主ご自身があれほどの奇跡をもって導き出されたのだから、目の前にエジプト軍が迫り、絶体絶命の状況におかれたからといって、どうしてそんな不信仰なことが言えるのか・・と、傍観者としては言いたくなります。
しかも民はこのあと、海の中を渡るという奇跡の中で助けられたときには、そこで主への賛美を歌ったというのです。(15章1-18節)
なんだか情けないような気がしてきます。
しかし私たちに、果たしてそんなことを言う資格があるのでしょうか。
出て行くときには「臆することなく」出て行ったはずのイスラエルの民・・。ところがいざ窮地に追い込まれると、人が変わったようになってしまう・・。
それって実は、私たち自身の姿なのではないでしょうか。
窮地・・、そこで私たちは自分の本当の姿を見せられます。
私たちはそこで、自分の愚かさを見、しかもそんな私たちを忍耐をもって助け出してくださる主に出会うんですね。
大前提・・それは私たちは弱い者であるということ。
そしてそんな私たちの上に、主の変わらぬ愛があるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。"
出エジプト記 14章4節
主はモーセに告げられました。
引き返して、海辺に向かって宿営せよ・・と。(2節)
そしてファラオが追ってくるからねと、主は言われるのです。
それが今日の箇所です。
二百万の民が海辺に向かって宿営するとは、その追っ手に背を向けて、さらに目の前は海だということです。
それはいわば八方塞がりの状態ですが、イスラエルの子らはその通りにした・・とあります。
彼らは出発してまだ数日・・。ただひたすら自分たちを導く雲を見てそれについて行ったわけです。
しかし突然引き返し、宿営したと思ったら、目の前は海だったというのです。
民の心はどれほど不安に襲われたことでしょうか。
しかし主がモーセに言われたことは、その時「わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す」ということでした。
それは、ご自分が全能のまことの神であることを、エジプトにも知らしめようとされているという意味です。
天地万物は、主が造られました。
そしてこの世は主がお造りになられ、今もサタンが暗躍することを許されています。
そして聖書に記されている終わりのときの筋書きは、神である主がご自身を明確に現され、神の民を滅びから救い出すというものです。
その終わりのときに、主はこの方に背を向けるすべての者たちにも、ご自身をはっきり現されると、聖書は言っているんですね。
まことの神である主は、人々にご自身を現すお方なのです。
その第一弾が、御子イエス・キリストのマリヤからの誕生、そして第二弾が終わりの時のイエス・キリストの再臨なのです。
結局このあとにおきる紅海での出来事も、この終わりの時の「型」なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。"
出エジプト記 13章21~22節
ラメセス〜スコテ〜エタムと、出エジプト二日目です。(12:37,13:20参照)
この一団は「女.子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった」とありますから、すべてを合わせれば、少なく見積もっても二百万人はいたのではないでしょうか。(12:37)
さて、いよいよ出発した民には、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導かれた。そしてその柱の中には主がおられたというのです。それが今日の箇所です。
この柱は、たとえ民が二百万人だとしても、小さな子供でさえ目を上げさえすれば、誰もが見ることのできた「神のしるし」でした。
こんな心強いことはありませんね。
神はそのようにして、ご自分の民を導かれたのです。
さて、私たちクリスチャンにも、実は主はそのようにしてくださっているんですね。それが御霊(みたま)すなわち聖霊です。
昼は雲の柱・・それは目を上げさえすれば見えるのです。
夜は火の柱・・それはたとえ真っ暗闇の中に落ちてしまったとしても、目を上げさえすれば必ず見えるのです。
しかし、もし下ばかり向いていて上を見上げなければ、この雲の柱は見えないんですね。
同様に私たちも、問題ばかりに目を向けて下を向いているのではなく、目を上げて主という方の存在に目を向けるならば、私たちには御霊が見えるのです。
私たちには、それが真っ暗闇の中であったとしても、火の柱としてはっきり見える「御霊」が伴って、私たちを導いてくださるのです。
下を向かずに、上を見て歩みましょう。
その時に、御霊がそこにおられることがわかるのですから。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。"
出エジプト記 13章17~18節
二百万の民はいよいよ約束の地に向けて出発しました。
エジプトから約束の地カナンまでは直線距離にして200キロメートルくらいのもので、それは東京から浜松までもないくらいの距離です。
しかしこの民は、この目と鼻の先にある約束の地に入るのに、実に四十年もかかってしまうんですね。
それはなぜかというと、イスラエルの民が約束の地の近くまで行って偵察隊を出したときに、敵があまりに強そうなので怖じ気(おじけ)づき、「こんなことならエジプトで死んだ方がましだった」などという不信仰のことばを発した・・。
それに対して神の怒りが下ったというのが、その原因でした。
主はこのような民の性格を、初めからご存じだったようです。
「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」と主は考えられたというのです。
それで主はこの民を、直線コースであるペリシテ人の地へは導かずに、「葦(あし)の海に向かう荒野の道に回らせた」・・。
しかし葦の海とは紅海のことで、それはもっと悪い、いわば行き止まりのコースでした。
主はどうしてこのような逃げ場のないところまで民を追い込んだのでしょう。
それは、民をまず完全な八方塞がりの状態に置き、そこであの世界中の誰もが知っている「紅海の水を分けて民にそこを通らせる」という、出エジプト最大のクライマックスの場面をわざわざ作られ、ご自身が決して裏切ることのない、まことの神であるということをそこに見せつけられる・・、そのためだったということが、このあとを読んでいくとわかります。
しかしこれって実は、いつもの主のなさり方なんですね。
そのことを私たちは、創世記以来、何度も何度も見てきました。
絶望・・それは、主がご自身を現される前夜なのです。
私たちは絶望に直面したときには、このような主が共にいてくださることを思い、感謝の声を上げるべきなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
モーセは民に、主がエジプトでなされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた「その日」に、そしてその後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。(4-10節)
そして今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこのことが記された聖書があるからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きた神である主のこの大いなるみわざ「出エジプト」・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちに、そして全世界の人々にも、この聖書を通して語り継がれてきたというわけです。
そしてこの出エジプトの出来事は、私たちクリスチャンの救いをそのまま「型」として表しているのです。
私たちはこの神の大きな計画のただなかにいるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
ですから「その日」というこのことばは、結構近い未来の話であったわけです。
モーセは民に、主がエジプトでされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。
ところが、近い未来であったはずの「その日」は、民の不信仰が原因で、四十年も先に引き延ばされてしまうんですね。(民数記13章以降参照)
それはさておき、今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこの聖書の箇所があったからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きたこの「神である主」の大いなるみわざ・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちにも、そして私たちクリスチャンにも聖書を通して語り継がれているというわけです。
代々語り継がれてきたこと・・、それを今の私たちは見ているのです。
さらに私たちクリスチャンの救いは、この出エジプトから直接つながっている話なのです。
私たちは、この偉大なみわざを世界中に示された主に属する者とされているのだということを、いつもはっきりと自覚していたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。"
出エジプト記 12章46節
主は「過越に関する掟」をモーセとアロンに与えられます。(43-50節)
この掟を見ると、イスラエルの民の中には寄留者や雇い人という、十二部族以外の人たちも混入していたことがわかります。
それらの人たちに対して主は、もし過越のいけにえをささげようとするなら、その男子はすべて割礼を受けなければならない。
それはこの国で生まれた者も、寄留している者や奴隷も同様に、とにかく割礼を受けよ・・と。
そして割礼を受けるなら、「彼はこの国に生まれた者と同じになる」というのです。(48節)
そして今日の箇所で強調されているのは「これはひとつの家の中で食べなければならない」ということです。
それは、その人がたとえ異民族の寄留者であっても、割礼を受けるなら、なんの差別もなく一つの家の中の家族となるということを示すものです。
このことを教会に当てはめて考えると、全く出自(しゅつじ)や性格の異なる人であっても、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けるなら、それは神の家族となり、「私たちは主にあってひとつ」と宣言できる者となるということです。
そして家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない・・。
それは、その救いはこの神の家族というつながりの中でのみ、それは形成されていくことを示しているのではないでしょうか。
さらに・・その骨を折ってはならない。
それは、イエス・キリストの十字架までも暗示しているわけです。
ささげ物となられた神の子羊イエスは、十字架から下ろされるとき、通常の習慣であるところの脚の骨を折られるということはなかったのです。
こうして主イエス・キリストにある神の家族は、真の家族となり、同じ目的地、天の御国に向かって、歌いながら歩む者となるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)