" しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。"
出エジプト記 11章7節
これはモーセがファラオに言ったことばです。
今度おまえの顔を見たら生かしてはおかないと言っていたはずのファラオの所に、再びモーセは行って、ファラオに直接宣告したようです。
モーセはファラオに、エジプトのすべての長子が死ぬことを伝え、ただし・・といって付け加えたのが今日の箇所です。
そしてさらに、あなたの家臣たちは私の所に下ってきて、どうか出て行ってくださいと懇願するだろう・・と啖呵を切り、怒りに燃えてファラオの所から出て行った・・。これが4節から8節までに記されていることです。
イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、主はエジプトとイスラエルを区別される・・。
主が選んだものはすべて、きっちりと主の御手の中にあって守られる、というのです。
「犬でさえ」というのが印象的です。
この当時の犬というのは、今の時代のペットのような愛される存在ではなく、忌み嫌われる存在でした。
ところがその犬でさえ、神である主の名のゆえに守られるというのです。
クリスチャンは「敬虔な」とかいう言い回しをされて、何か違う人のような受け止め方をされることがありますが、それは全くのお門違いで、クリスチャンというのは神の前に罪びとだということを認めたからこそ、神の赦しを受け取って、神に立ち返った・・そのような者です。
それがたとえ世の中の人からは忌み嫌われるような存在・・、ヤクザとか売春婦とかホームレス、あるいは障害をもっていて人々の冷たい偏見の目にさらされている人であったとしても、それらのことは全く関係なく、ただ「主の名」の故に、その人たちは世の滅び行く人たちとはきっちり分けて取り扱われるというのです。
私たちはただ「恵み」によって、「イエス・キリスト」の名によって救われているのです。
" イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義・・、そこに差別はありません。" (ローマ3:22参照)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)