" さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。"
出エジプト記 13章17~18節
二百万の民はいよいよ約束の地に向けて出発しました。
エジプトから約束の地カナンまでは直線距離にして200キロメートルくらいのもので、それは東京から浜松までもないくらいの距離です。
しかしこの民は、この目と鼻の先にある約束の地に入るのに、実に四十年もかかってしまうんですね。
それはなぜかというと、イスラエルの民が約束の地の近くまで行って偵察隊を出したときに、敵があまりに強そうなので怖じ気(おじけ)づき、「こんなことならエジプトで死んだ方がましだった」などという不信仰のことばを発した・・。
それに対して神の怒りが下ったというのが、その原因でした。
主はこのような民の性格を、初めからご存じだったようです。
「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」と主は考えられたというのです。
それで主はこの民を、直線コースであるペリシテ人の地へは導かずに、「葦(あし)の海に向かう荒野の道に回らせた」・・。
しかし葦の海とは紅海のことで、それはもっと悪い、いわば行き止まりのコースでした。
主はどうしてこのような逃げ場のないところまで民を追い込んだのでしょう。
それは、民をまず完全な八方塞がりの状態に置き、そこであの世界中の誰もが知っている「紅海の水を分けて民にそこを通らせる」という、出エジプト最大のクライマックスの場面をわざわざ作られ、ご自身が決して裏切ることのない、まことの神であるということをそこに見せつけられる・・、そのためだったということが、このあとを読んでいくとわかります。
しかしこれって実は、いつもの主のなさり方なんですね。
そのことを私たちは、創世記以来、何度も何度も見てきました。
絶望・・それは、主がご自身を現される前夜なのです。
私たちは絶望に直面したときには、このような主が共にいてくださることを思い、感謝の声を上げるべきなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)