" 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。"
出エジプト記 13章21~22節
ラメセス〜スコテ〜エタムと、出エジプト二日目です。(12:37,13:20参照)
この一団は「女.子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった」とありますから、すべてを合わせれば、少なく見積もっても二百万人はいたのではないでしょうか。(12:37)
さて、いよいよ出発した民には、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導かれた。そしてその柱の中には主がおられたというのです。それが今日の箇所です。
この柱は、たとえ民が二百万人だとしても、小さな子供でさえ目を上げさえすれば、誰もが見ることのできた「神のしるし」でした。
こんな心強いことはありませんね。
神はそのようにして、ご自分の民を導かれたのです。
さて、私たちクリスチャンにも、実は主はそのようにしてくださっているんですね。それが御霊(みたま)すなわち聖霊です。
昼は雲の柱・・それは目を上げさえすれば見えるのです。
夜は火の柱・・それはたとえ真っ暗闇の中に落ちてしまったとしても、目を上げさえすれば必ず見えるのです。
しかし、もし下ばかり向いていて上を見上げなければ、この雲の柱は見えないんですね。
同様に私たちも、問題ばかりに目を向けて下を向いているのではなく、目を上げて主という方の存在に目を向けるならば、私たちには御霊が見えるのです。
私たちには、それが真っ暗闇の中であったとしても、火の柱としてはっきり見える「御霊」が伴って、私たちを導いてくださるのです。
下を向かずに、上を見て歩みましょう。
その時に、御霊がそこにおられることがわかるのですから。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)