" もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。"
出エジプト記 20章25節
主がモーセに語り始められた教えの冒頭の部分は、偶像を作ってはならないということ、そして祭壇は土で造りなさいということでした。
そしてもしその祭壇を石で造るなら・・というのが今日の箇所です。
石に、のみを当てることで、それを冒すことになる・・。
この四十年後、モーセは民に、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったときには石の祭壇を造るように命じていますが、ここでもその石にのみを当ててはならないと言っています。
それに比べてソロモンの神殿は、巨大な石が切り出され、積み上げられて造られたものです。
これも主の導きの中でこの神殿が建てられることとなったわけではありますが、その神殿は結局は崩壊してしまい、現在に至っています。
石にのみを当ててはならない・・。それは、人の意図や力がそこに入る余地はないということを象徴しているのではないでしょうか。
そしてそれは、動かしがたいような荘厳な神殿を造り、礼拝する場所を一つに決めて礼拝することに対する警鐘であるようにも思われます。
" あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。" (第一コリント3:16)
今、イエス・キリストによって神の子とされた私たちは、内におられると同時に天地万物を造られた神を礼拝する者とされているわけですが、その祭壇は、実に私たちの心の内にあると言っても良いのではないでしょうか。
わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。(ヨハネ4:21)
人がその存在すべてをささげて、主の前にひれ伏す・・、これが礼拝です。
そして私たちは、心の内の石にのみを当ててそれを整えることよりも、そのままで主の前に出て、礼拝することができる者とされているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。"
出エジプト記 20章24節
民が遠く離れて立つ中、モーセは神がおられる黒雲に近付いていきました。(21節)
その時主のことばがモーセに臨みました。
それが23節から次の21章全体、そしてさらに23章まで、日常のかなり細かいことまでの規定を主は語られています。
そしてモーセはこのことを、24章3節で初めて民に語っています。
モーセが一人神に近付き、四十日間山にいて、主のみ告げを聞き、十戒が刻まれた石の板をいただくというのは、そのあとのことなんですね。(24:18)
主がモーセに語られたことの初めは、あなた方はわたしが天から語ったのを聞いたでしょう。あなた方はそのときの恐れを覚え、金銀の神々(他の神々)を造らないように気をつけなさい・・ということでした。(23節参照)
そしてそれに続く主のことばが、今日の箇所です。
ここで主は、土で祭壇を造ることを命じられています。そしてそこで、羊と牛の全焼のいけにえを献げよ・・と。
この土の祭壇は、後にソロモンが建てる石で造られた荘厳な神殿とは違い、どこでも造ることのできるものです。
そしてここで主は、驚くべきことを約束されているのです。
それは、「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」ということでした。
イエス様はサマリヤの女に「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。」と言われました。(ヨハネ4:21)
どこでも造ることのできる土の祭壇・・、それこそが「主の名が覚えられるすべての場所」すなわち、ひとりひとりの心を示す型なのではないでしょうか。
そしてその「すべての場所で」、主はあなたに臨み、あなたを祝福すると言われたのです。
今、主イエス・キリストを信じる私たちの内に、今日の24節のみことばが成就しているのというわけです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」"
出エジプト記 20章20節
民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にして、身震いし、遠く離れて立っていました。(18節)
神のことばを、民は直接聞いてしまったのです。
それで民はモーセに言いました。「あなたが私たちに語ってください。〜 神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」と。(19節)
民は神へのあまりの恐れのために、この状況に耐えられなかったことが見えてきます。
それに対してモーセが民に答えたのが、今日の箇所です。
神が来られたのは、あなた方が罪に陥らないように、神への恐れがあなた方に「生じるため」だ、というのです。
「生じる」ということは、それまでは恐れがなかったということです。
私たちは信仰をもって以来、神に語りかけ、神から語られ、共に歩んでくださるこの方とずっと一緒に歩んできました。
ところが、そこには、全能の神、あがめられるべき神への「恐れ」がいつの間にかなくなっている・・。
そういうことって、ありませんか。
この恐れというのは、今日のモーセのことばによれば、「罪に陥らないようにさせるためのもの」だというのです。
私たちは主を恐れなければ、やはり自分勝手な考えで物事を判断し、その歩みを進めていってしまう可能性があるのです。
主を恐れることは大切なこと・・、いや、本来神に向き合うに際して私たちが取るべき基本的な姿勢なのです。
主を恐れるとは、この神を本当に神として認識するということです。
そしてその神を「心と思いと力を尽くして愛しなさい」と、主は言われているのです。
主を知ることを切に追い求め、主を恐れて歩みたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」"
出エジプト記 20章17節
人のものを欲する・・それは、人のものを取ろうとする心のことです。
そして実際に取ったならば、それは姦淫になったり、泥棒になったり、詐欺になったりするわけですが、神が実際に見られるのは、そのような心を持つかどうか・・だというのです。
イエス様が語られたマタイの福音書の5章から7章までの「山上の垂訓(すいくん)」中では、多くの厳しいことが語られています。
それらは「あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)というような、とてもできないことばかりですが、しかもそれらの多くは、その行いができるかということよりも、心が問われているのです。
そうなると私たちはもう、全員アウト!です。
そしてそれを実際に証明してしまったのが、イスラエルの民なのです。
彼らは、このエジプトから導き出した神との関係を「モーセの十戒」では実現することができませんでした。
その結果、彼らはAD70年には完全に滅び、世界中に散らされてしまったのです。
そしてその壊滅の70年前に登場したのがイエス・キリストです。
このイエス・キリストが、律法(戒律)を守ることによってはなし得なかった神との関係の回復という、神との新しい約束の道を開いてくださったのです。
要するに、このモーセの十戒から発した律法が「古い契約」で、イエス・キリストによって成し遂げられた神との関係回復の道が「新しい契約」なんですね。
これが旧約と新約の意味です。
神が私たちの心に求めていることは、旧約の世界でも新約の世界でも変わることはないのですが、それを行う者となるためには、この新しい契約の世界、すなわちイエス・キリストによる救いだけが、これを実現するというのです。
しかもその道は、イスラエルの民すなわちユダヤ人だけでなく、「全員アウト」の私たちにも開かれた・・。
これこそがまさに福音なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。"
出エジプト記 20章16節
第九戒は「偽証をしてはならない」であるわけですが、それがそんなに大切なことなのでしょうか。
証言には、被証言者(証言の対象者)の存在の価値を左右するという、強力な力があります。
良い方向の証言ならば、その人にとって力になりますが、悪い方の証言だったらそれはその人を貶(おとし)めることになり、限りないダメージを与えることになるわけです。
しかもそれが偽りだとしたら、それは他人のことばによってその人の存在が危ういものとなるという、由々しい事態となります。
証言には大きな力があるんですね。
ですから、それはしっかりコントロールして用いなければならないわけです。
常習的に人を訴える人がいます。
しかしそれは、第四戒の「人を殺してはならない」と同じで、それは人を殺すことに等しい行為なのです。
しかもやっかいなことに、私たちはそれを望んでもいないのにそれに近いことをしてしまう・・、すなわち人の悪口などが口から出てくることが私たち自身にもあるわけです。
十戒・・それをイスラエルの民は守り通すことができませんでした。
それは私たちの本当の姿を鏡に映すようなもので、私たちはそれをしっかり守って行うということは、ほとんど無理なんですね。
この哀れな私たちのために神が与えてくださったのが、御子キリストの十字架の死、そして復活なのです。
私たちは、このイエス・キリストという方によって初めて、神が喜ばれることを「することができる者」に変えられていくんですね。
私たちがするべきこと・・それは戒律を守ろうとすることではなくて、主とつながることなのです。
ですから、私たちはこれらの戒律を心の内に受け止め、その方向に進むには主によるしかないということを心に刻むこと・・そこが大切なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

今週の「たいむ」は・・
【本当の休みがある】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=32r83hBcURs&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。"
出エジプト記 20章16節
第九戒は「偽証をしてはならない」であるわけですが、それがそんなに大切なことなのでしょうか。
証言には、被証言者(証言の対象者)の存在の価値を左右するという、強力な力があります。
良い方向の証言ならば、その人にとって力になりますが、悪い方の証言だったらそれはその人を貶(おとし)めることになり、限りないダメージを与えることになるわけです。
しかもそれが偽りだとしたら、それは他人のことばによってその人の存在が危ういものとなるという、由々しい事態となります。
証言には大きな力があるんですね。
ですから、それはしっかりコントロールして用いなければならないわけです。
常習的に人を訴える人がいます。
しかしそれは、第四戒の「人を殺してはならない」と同じで、それは人を殺すことに等しい行為なのです。
しかもやっかいなことに、私たちはそれを望んでもいないのにそれに近いことをしてしまう・・、すなわち人の悪口などが口から出てくることが私たち自身にもあるわけです。
十戒・・それをイスラエルの民は守り通すことができませんでした。
それは私たちの本当の姿を鏡に映すようなもので、私たちはそれをしっかり守って行うということは、ほとんど無理なんですね。
この哀れな私たちのために神が与えてくださったのが、御子キリストの十字架の死、そして復活なのです。
私たちは、このイエス・キリストという方によって初めて、神が喜ばれることを「することができる者」に変えられていくんですね。
私たちがするべきこと・・それは戒律を守ろうとすることではなくて、主とつながることなのです。
ですから、私たちはこれらの戒律を心の内に受け止め、その方向に進むには主によるしかないということを心に刻むこと・・そこが大切なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 盗んではならない。"
出エジプト記 20章15節
盗むというのは、人の物をその人の許可なしに取ってしまうということです。
盗む側にとっては、それが切実な必要であったり、またあるときにはそれが楽しみであったりもするわけですが、盗まれる側にとっては深く心に傷を受けることになります。
しかし実際に「盗む」ということをするとき、それは実は自分を傷つけることなのだということを知る必要があるのではないでしょうか。
人の心には「良心」というものが生まれもって与えられています。(ローマ2:15参照)
そして罪を犯すとき・・盗みもその一つですが・・その人の良心は痛みます。
しかし、そのことを正当化してその罪を犯し続ける場合には、その良心は鋭さを失い、「(盗みが)当たり前」の世界に生きるようになってしまうわけです。
このことは実は、自分の内に与えられている大切な物、すなわち「心を失わせる」ということに等しいわけです。
盗んではならない・・、それは単なる戒律の一つですが、それは自分を痛めつける行為であることを知りなさい、という風に受け止めても良いのではないでしょうか。
私たちは「するべきこと」を知りながら、それにそぐわないことを日常生活の中でいくらでもしています。
それが「罪」なんですね。
神は、私たちの心が健全な状態にあることを願っておられるのです。
そのために神は十戒を与えられたのです。
しかし私たちは罪を犯し、罪によって自分を傷つけるのです。
それをしてしまうような私たちに、戒律は自分が何をしているのかを教えてくれるものなんですね。
私たちはまず、自分を大切にしなければならないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 姦淫してはならない。"
出エジプト記 20章14節
姦淫(かんいん)とは、辞書によれば「男女間の倫理にそむいた肉体関係」とされています。
神である主は、この十戒を示されたあと、多くの細かい規定をも示されていますが、そこではあらゆる性的不道徳を禁じています。
しかしそれは、単なる性的不品行を禁じるということだけではなく、異邦の民や宗教に汚されることを防ぐという目的がそこにはありました。
自然の力を神としてあがめる古代社会には、常に偶像礼拝に伴う不道徳な儀式が多くありました。
しかし聖書の神は、その一切を忌み嫌われ、それを禁じるお方なのです。
聖書の神は、性に関しては、子孫の繁栄のための夫婦の営みを祝福して「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われる神なのです。(創世記1:28)
そして性的な不品行に関しては、それは神から離れることそのものであるということを、私たちに警告しておられるのです。
第五戒から第十戒までは、人と神との関係についての戒律ですが、この第七戒をも含め、私たちは心の内を見るならば、みな有罪となるようなことばかりです。
そしてこの戒律を果たすために示されているのが、第一戒の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。
私たちはここに身を置く以外に、私たちを神から引き離す悪の力から守られるところはないのです。
ところがそれさえできなかったのが、このイスラエルの民だったというわけです。
しかしそれは、私たちすべての人の「型」でもあります。
そんな弱い私たちには、この出エジプトの出来事が象徴するように、神の絶対的な力を伴った「救い」が必要なのです。
そのためにすべての人に与えられたのがイ神の御子エス・キリストという、生ける神ご自身なんですね。
人はこの方によってのみ、この方の力によってのみ、このできるはずもない戒律に従う者として変えられていくのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 殺してはならない。" 出エジプト記20章13節
前回に引き続き、第六戒「殺してはならない」について、今日も考えてみたいと思います。
殺す・・、それは基本的には殺人、すなわち肉体を死に至らしめることです。
しかし、殺すという行為は、殺人の他にもう一つあることに気付かされます。
それは、生きようとする心を殺すという、言ってみれば人格に対する殺人です。
最近は「死ね」という言葉が、若者の間では平気で使われるようになってきています。
殺人のための道具はいろいろありますが、この人格に対する殺人を行うのは「言葉」なんですね。
" 舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。" (ヤコブの手紙3:8)
言葉で刺された人は、目には見えなくてもその心に深い傷を負います。
そしてそれが何度も何度も繰り返されていくうちに、その人の心は抵抗したり解決したりしようとする力も奪われ、挙げ句の果ては死を選ぶということになったりするわけです。
私たちはこの「制することのできない舌」をどう扱ったら良いのでしょうか。
"イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」" (ルカの福音書18:27)
私たちは内にいただいているイエス・キリストという救いに自分をお任せする以外に、その方法はないんですね。
それができるのは神しかないというのですから。
私たちにできることは、できない自分を主に明け渡すことができるように祈り、御霊によって自分の舌をコントロールしていただくしかないんですね。
そのことだけはしなさいと、神は言っておられるのではないでしょうか。
殺してはならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)