" 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。"
出エジプト記 19章16~19節
民は神との出会いのために衣服を洗い、三日後の神の顕現(けんげん)に備えました。
そしてついに、神ご自身が民に現れるときが来ました。
そしてこの顕現の様子は、聖書にそれまでに記されてきたどの記事よりもおそるべき光景でした。
雷鳴と稲妻・・、それはまさに黙示録に記されている天の御座の光景そのものです。(黙示録4:5)
厚い雲・・、それはこのあと、主からの命により、モーセが幕屋を完成させたときにも雲が会見の天幕をおおい、「主の栄光が幕屋に満ちて」いて、もうそこに入ることができなかったという、いわば神が最も近くに来られたときの描写です。(出エ40:35)
そして「非常に高く鳴り響く角笛」・・、それはおそらく大空を包み込むような、天の遙か高いところから鳴り響いているという印象なのではないでしょうか。
そして主が山の上に降りてこられた・・。
全山が煙り、火の中にあって降りてこられ、角笛の音が「いよいよ高くなる中」、宿営の民はみな震え上がったというのです。
絶対的に異なる存在としての神が、被造物である私たちのレベルに合わせて降りてこられたのです。
そして神の御子キリストが赤子となって世に来てくださったということも、それに等しいことなのです。
神はそれほどまでに、私たちに関心があり、私たちを神の国に導こうとされ、それをご自身自ら私たちに知らせようとされるお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。
彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。
あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」"
出エジプト記 19章10~13節
主は、いよいよシナイ山に降臨されることをモーセに告げます。
彼らを聖別し・・。
人が神の前に出るのに、清くない姿で出て行ってはならない。
自らの衣服を洗い、そしてその前に三日間をかけて備えをせよ。
そして山に近づく時には、モーセが設けた境界に触れることがないようにしなければならない・・。
そこに触れる者は必ず殺される・・。
ただし「雄羊の角が長く鳴り響いたとき」だけ、山に入ることができる・・。
主なる神は、私たちが気楽に出て行って会うことなど、到底できる存在ではないんですね。
私たちは、神の前に出るにはあまりにも汚(けが)れているのです。
私たちは聖日に教会に行き、神を礼拝します。
その私たちも、このシナイ山に臨まれた神と、同じ神を礼拝しているのです。
私たちは汚れたままで、神の前に出ることはできないんです。
でも私たちには、神の前に完全なる「身分証明書」があるんですね。
それは私たちの主イエス・キリストが、私たちのすべての罪を負って下さったという、主が自ら与えてくださった保証です。
その主を身に帯びて、私たちは神の前に完全に清い者として出ることができるのです。
このように私たちは、ただ主イエス・キリストによるという、全くの「恵み」によって、主を礼拝する者とされているのです。
礼拝する時には、この主イエス・キリストを明確に覚えて礼拝しましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)