" それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。"
出エジプト記 20章5~6節
今日の箇所は、前回の第二戒、偶像を造りそれを拝んではならないという主のことばの続きです。
主は、「わたしはねたみの神」だと言われました。
妬(ねた)むという言葉の意味は、ほかの人をうらやんで憎むとか、嫉妬するとかいう意味がありますが、もう一つ「恨(うら)み嘆(なげ)く」という意味があります。
主のねたみはこの三番目の「恨み嘆く」に近いものではないかと思われますが、それにしても神が恨むというのは、なんとなくピンと来ません。
しかし、嘆きの末に怒りが下るというのは、聖書に随所に見られますし、神の全体の計画の最後の出来事、すなわち大艱難時代とそれに続く主の再臨は、主の憤りが極まるときです。
しかしそれは同時に、主の慈愛が成就するときでもあるんですね。
今日の箇所では、主なる神を愛しその命令を守る者には、主は恵みを千代にまで施すけれども、主を憎む者にはその咎を「三代、四代」にまで及ぼすと記されています。
この「千代」と「三代、四代」の違いを見てください。
神の恵み、すなわち神の愛は、それにふさわしくもない私たちの上に、憤りより遙かにまさっているのです。
神は「ふさわしくない私たち」をその千代の祝福に入れたいのです。
その最終的な形が、神が用意されている「天の御国」なんですね。
そしてその愛を最もはっきり表しているのが、あの主イエス・キリストの十字架と復活なのです。
私たちの務め・・・それは私たちが「恵み」というその一言に尽きる神の愛に応えることなのではないでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。"
出エジプト記 20章4節
十戒の二番目の教えです。
偶像・・、それはそこに神を住まわせるために作る器です。
しかし天地万物を造られた神が、人が勝手に作った器に住まわれるでしょうか。
ところが実際に、人が作ったこの偶像には、何かわけのわからない霊的な存在があることを、私たちは体験的に知っています。
しかしその霊的存在は、まことの創造主なる神から来るものではないことは明らかです。
その霊には光もないし喜びもないんです。
あるのはただ私たちを恐怖に陥れ、私たちを縛るような霊ばかりです。
霊というのは見えない世界に実存し、実際に私たちに働きかけるものです。
今、この世にある霊は二種類しかありません。
それは父なる神から来る神の霊である聖霊、そしてもう一つの霊的存在、それは聖書の初めからこの世の終わりまで、なぜか神がその存在を許しているサタンから来る霊、すなわち悪霊です。
偶像に宿る霊・・それが神からのものでないのなら、あとは悪霊しかないのです。
そしてその霊は、人をまことの神から引き離すということを目的として存在しています。
偶像を拝むというのは、神から離れることそのものなのです。
だからこの霊との関係を決して持ってはいけない・・それがこの第二戒なのです。
ところがイスラエルの民は、これができなかった・・。
あれだけ大きな奇跡を見せられていながら・・。
実際にこの直後に、しかもモーセが十戒を受けている間にも、民は偶像を作り始めてしまうんですね。
あくまでも愚かな民・・、それは実は私たちの雛形に過ぎません。
私たちは心と思いを尽くして主なる神を「まことの神」とし、力を尽くしてこの方を愛することが求められているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)