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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

" 主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──"
 レビ記 4章1~2節

 レビ記には、はじめからささげ物についての規定が記されています。
 最初は全焼のいけにえについて、次に交わりのいけにえ、そしてそれに続いて記されているのが、この4章の罪のためのいけにえです。

 その罪は、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気付かずに罪に陥り、そのひとつでも行ってしまった場合・・、とあります。

 これを今の私たちに例えるなら、イエス様を知る前までは、自分が罪びとだとは思ってもいなかったのに、内にある罪の性質を示され、その心をはじめて神に向けたとき・・ということのなるのではないでしょうか。
 今日の箇所以降は、そのためのささげ物をするための事細かな規定が記されています。
 そしてそれを行う者は、神との関係を回復することができるのというのです。

 今の私たちにとって、いけにえをささげるとはどういうことでしょうか。
 それは神の御子イエス・キリストがすでにいけにえとなって十字架にかかって下さったことを「心に信じる」ことです。
 あとは、十字架で死んでよみがえられ、今も生きておられるこの方を主として信じ従う・・そのことにほかなりません。

 私たちすべての者は、神の前にその罪を認め、悔い改めるならば、すべての人はその罪の赦しに与(あずか)ることができるというのです。
 そしてこのレビ記の話は、イスラエルという特別に神に選ばれた民のことですが、その罪の赦しをこの民のみならず、全世界の地の果ての民にまでその道を開いて下さった・・それが神の御子イエス・キリストなんですね。

 私たちは、イエス・キリストを信じて罪の赦しのうちに置かれました。
 それでも、私たちは心の中で、あるいは具体的な罪を犯してしまうことがあります。
 しかし、そのつど神の前にその罪を本当に認めて悔い改める・・すなわち、イエス・キリストの十字架のあがないを思い起こして、いつもそこに立ち返るならば、私たちは永遠の赦しの中を歩み続けることができるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.29.Thu 09:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、
 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。
 アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上の薪の上にある全焼のささげ物に載せて、焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。"
 レビ記 3章3~5節

 レビ記に入るなり、ささげ物についての規定が続きます。
 屠った動物をどのように処理するか、またささげ物が鳥であった場合・・。(1章)
 2章は穀物のささげ物。パンにしたときのその味付けまでが記されています。

 そして3章では「交わりのいけにえ」について書かれています。それはその内臓のほんの一部分を「全焼のささげ物」に載せて、焼いて煙にする主への香ばしいささげ物にするというのです。
 それが今日の箇所です。

 全焼のささげ物とは、神との完全な和解のためのささげ物であり、その上に「交わりのいけにえ」を載せてささげ物とせよというのです。

 例によって、このことを私たちの信仰生活に重ねて考えてみるならば、
 全焼のいけにえとは、私たちがイエス・キリストを救い主として信じて、神との完全な和解をいただいた・・すなわち救われたことを指すわけです。
 それで私たちは神と歩む者として、世からあがない出された者となるわけです。
 しかしそのような私たち、すなわちクリスチャンにも、洗礼を受けたことで「私はクリスチャンです」という認識は持ってはいるものの、神との深い交わりを求めて歩むようになる人と、なんとなくぼんやりとしたクリスチャンであるまま、時が過ぎていく人がいるというのが現実です。

 このいけにえの規定には、全焼のいけにえの上に「交わりのいけにえ」を加えるということが書いてあるのです。

 私たちは、クリスチャンになっただけで、あとは教会の礼拝に出ていればそれで良いのではないのです。
 主は私たちに「交わり」を求めておられるんですね。

 この主の御心を私たちは、しっかり受け止め、主と深く交わることを日々求めていこうではありませんか。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.28.Wed 11:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。"
 レビ記 1章3~5節

 レビ記に入りました。
 このレビ記には、礼拝に関する規定が事細かく書かれていて、私たちにとってはちょっと退屈で読みづらいかもしれません。
 しかし、そのようなレビ記の中にも、信仰を持つ私たちに直接関わる大事な部分が、所々に見られます。

 例えば今日の箇所は、ささげ物のことですが、それは私たちの罪のために宥めのささげ物となって下さったイエス・キリストの十字架の型がそこに示されています。
 ここでは「牛」について書かれていますが、2節には「牛か羊を」と書かれています。
 イエス・キリストは私たちの罪のために屠(ほふ)られた小羊であるということが、聖書の随所で語られています。

 全焼のささげ物とは、神と完全につながるためのささげ物です。
 そしてそのためには「傷のない雄」をささげなければならない・・。(3節)
 傷のないとは、全く罪のないという、完璧なささげ物であることを意味します。イエス・キリストはまさに、私たちの罪のために完璧なささげ物だったわけです。

 このささげ物をささげる者は、まずその頭に手を置く・・。
 それは自分のすべての罪をこのささげ物に負ってもらうという意味です。
 だからこのささげ物が「宥(なだ)め」としての役割を果たし、それによって「彼は受け入れられる」というわけです。(4節)

 祭司はこのささげ物を屠り、その血を祭壇の側面に注ぎかける。
 イエス・キリストが流された血が、ささげ物としての血であることを信じることによって、私たちは永遠の赦しの中に置かれる者とされるのです。

 私たちはイエス・キリストの贖(あがな)いのみわざによって、赦された者、すなわち神と完全につながる者とされたのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.27.Tue 11:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。”
 出エジプト記 40章36~38節

 さあ、幕屋の準備も整い、いよいよこれから主と契約を結んだ民としての大移動が始まるわけです。

 幕屋が完成して、祭司と幕屋に関わるすべての部材に油そそぎが行われ、そのすべてが清められたとき,雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた・・とあります。(34節)
 そしてこの雲はずっとこの幕屋とともにあり、この旅を導く存在ともなるわけです。
 
 雲が幕屋から上らない限り、民は決して動くことはありませんでした。
 そして旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった・・(38節)。
 これが出エジプト記の最後のことばです。

 このことからわかることは、この旅路は主がそのすべてのタイミングを決めて民を導かれたということです。
 それはまさに私たちの信仰生活そのものを見るようです。

 主と共に歩み始めた信仰生活の旅は、すべてのことにおいて神がその合図をされ、そこではじめて新しい一歩を踏み出す・・。

 主の雲が上がったとき・・それが新しい出発をせよという合図です。
 それは、もうそこにはとどまらなくてもいいのだよという合図であるわけです。

 私たちの信仰生活において、雲がとどまるとき・・それは動くことができず、状況も何も変わらないというそのとき・・私たちは忍耐をもってそこにとどまる必要があるのかも知れません。
 しかし何か、状況が変わり、「動ける」ようになったとしたら、そのときこそ、雲が上がったときなのではないでしょうか。

 私たちの信仰生活の歩みは、神の御心と完全に一つとなる歩みなんですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.26.Mon 12:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
192.jpg

 今週の「たいむ」は・・

 【まったく異なる目的】・・です。

 https://m.youtube.com/watch?v=v3VYLn8orPk&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

 God Bless You !

 
2024.02.24.Sat 11:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。"
 出エジプト記 40章34節

 今日の箇所は、出エジプト記のほぼ最後のところです。
 結局出エジプト記は、神の幕屋の設営が完了したところで終わるんですね。
 それは「第二年の第一の月の一日」。(17節)
 エジプトを出てからそれまでの出来事は、わずか一年間の出来事だったわけです。

 モーセは幕屋のためのすべてを整えました。その詳細がこの40章です。

 幕屋の一番奥には金で覆われた「あかしの箱」がありました。
 その箱には「なだめの蓋」があり、そこには金で覆われたふたつのケルビムが向き合い、羽を広げて箱全体を覆っていました。そしてそこには二枚の「さとしの板」が入れられました。
 幕屋の中央は垂れ幕で仕切られており、奥の箱があるところが至聖所、手前が聖所です。
 聖所にはパンを供えるための机と燭台が左右に置かれ、中央には金の祭壇が置かれ、そこで主にささげるための「香り高い香(こう)」がたかれました。
 幕屋の入り口には垂れ幕がかけられ、その前には洗盤が置かれ、そこには水が満たされました。それは祭司たちが幕屋に入るときに、手と足を洗って身を清めるためのものです。
 そしてその手前に、いけにえを焼く祭壇が置かれました。
 そしてこの幕屋と祭壇の周囲には庭が設けられ、その外周には垂れ幕がかけられました。
 この幕屋の敷地は幅22,5m、奥行き45m、概算で約300坪です。(38章9-13節参照)

 モーセはこれらすべての用具に油そそぎをしてこれらを聖め、アロンには聖なる装束を着せて油そそぎをし、その子たちにも油そそぎをし、すべてを清めました。そしてそのとき・・これが今日の箇所です。
 そのとき、主の栄光が幕屋に満ちた・・というのです。

 このことを私たちの信仰生活に重ね合わせて見るならば、幕屋が整えられ清められること・・それは、私たちが主の一方的なみわざのゆえに与えられたすべての恵みをしっかり理解し、私たちの心が主で満たされるということです。
 そして主は、そこにご自身の栄光を現してくださるというのです。

 私たちの心が、主の前に整えられているかどうか、先ずは点検したいものですが、大抵そこには悔い改めが待っています。

 しかし主は、その「悔い改めがあるところに」みわざを現してくださるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.23.Fri 12:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。
 モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。"
 出エジプト記 39章42~43節

 モーセは幕屋に関わるすべての部材や装束の製作に取りかかるように命じました。
 それで神に選ばれたベツァルエルとオホリアブの指揮の下、イスラエルの子らはすべての仕事を終えてモーセのもとに戻ってきました。

 造られたものは、ざっと以下の通りです
 幕屋の十枚の幕とその上の十一枚の幕、幕屋の骨格となる板、その台座、聖所と至聖所を分ける垂れ幕、アカシヤ材の柱、契約の箱と宥めの蓋、その担ぎ棒、机とそこに置く道具、燭台とそれに伴う道具、香の祭壇、注ぎの油、香り高い香、ささげ物の祭壇、祭壇の用具、洗盤、庭の掛け幕とその台座、幕屋と周りの庭の杭、庭の門の垂れ幕と柱。アロンの装束、エポデ(胸当て)、亜麻布の長服、かぶりもの等、記章など・・。

 さて、これから実際に幕屋の設営に入るわけです。
 モーセは設営の手前で、まずその準備が主の命じられたとおりであったことを確認しました。そこでモーセは彼らを祝福した・・とあります。
 多くの人々が準備に携わり、そのひとりひとりが注意深く、主の指示に違(たが)わないようにそれぞれの部材を造ったというわけです。

 主の指示に違わないように・・。これって実は結構難しいことなのではないでしょうか。それを彼らは忠実にやったのです。

 人が聖書を読み始め、信仰に導かれるその道程で、私たちはそれまで持っていた神に対する先入観とか、常識によって、神の言葉をそのまま受けとるということに、とても困難を感じることがあります。
 みことばをそのまま忠実に受け取り、そしてそれを自分の内に「実」として実らせて行くことが求められているのに、自分の考えで御心とは微妙に違うものをそこにつくりあげてしまう・・。
 これって、実は良くあることなんですね。

 さあ、いよいよ主の宮を建て上げる・・。
 それは、私たちがみことばをそのまま素直に受けとろうとしたときに始まるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.02.22.Thu 09:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、
 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」"
 出エジプト記 36章4~5節

 主はベツァルエルとオホリアブに神の霊を満たし、人を教える力もお与えになりました。
 そしていよいよ幕屋と祭司の装束のための準備が始まったとき、その仕事に携わっている人たちがモーセのところにやってきてこう言ったというのです。
 民は奉納物を持ってくるのが止まらず、それはすでに有り余っています・・と。
 それでモーセは民に、もうこれ以上のことはしなくて良いと告げたら、やっと民は「持ってくるのをやめた」というのです。(6節)

 聖書の中にはもう一カ所、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、民に悔い改めを迫って、身の回りのすべての偶像を取り除かせ、宮が整えられ、七日間の祭りを行ったときのことが記されています。
" ヒゼキヤが、その積まれた山について祭司とレビ人に説明を求めると、
 ツァドク家の祭司の長アザルヤが、彼に答えて言った。「人々が奉納物を主の宮に携えて来ることを始めてから、食べて満ち足り、たくさん残るようになりました。主が御民(みたみ)を祝福されたので、その残りがこんなにたくさんあるのです。」"
 歴代誌 第二 31章4~10節

 食べて満ち足り、たくさん残るようになった・・、それは人々が奉納物を携えてくることを始めてからだ・・というのです。
 それで主が御民を祝福された、すなわち献げる力を与えられたので、「その残りがこんなにあるのです」というわけです。

 私たちのこの小さな群れ(教会)も、献げ物によって宮(教会)にはほんの数年で多くの蓄えが与えられました。
 そしてそれらは、必要のある人々の生活を支えるために、そして出て行って福音を伝えるために使うことができるようになりました。

 主への熱心をもって、献げる力も与えられ、主の祝福をさらにあふれるばかりにいただき、「こんなにあるのです」と言って、それを人々のために使う者とさせていただきたいですね。
 

 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.21.Wed 13:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。"
 出エジプト記 35章34節

 いよいよ幕屋の設営のための準備が始まります。
 ここで主は初めに、この大きな仕事の総指揮官として、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召されました。今日の箇所の「彼」がその人です。

 主はベツァルエルに「知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされ」ました。(31節)
 それは、すべての細工に意匠(いしょう)を凝らす・・すなわち、優れたデザインをするためでした。(32-33節)

 その後に続くのが今日の箇所ですが、主がベツァルエルに与えられた知恵と英知と知識は、デザインの才能にとどまらず、「人を教える力」をもお与えになったというのです。そしてもうひとり、オホリアブにも・・。

 私たちはそれぞれ、さまざまな仕事に携わるわけですが、それは仕事に関しての知恵や知識を持っているというだけでは足りないものがある、ということをここでは教えられます。

 私たちが何かの仕事をするとき、それは多くの人との関わりの中でそれをやるわけです。
 例えば画家などは、自分ひとりで仕事を完結できるからいいなぁとか思うことがありますが、その画家とて、人々に作品を紹介するため、絵を売るために多くの人々との関わりを持って、その中で活動をしていかなければならないわけです。
 そこで私たちは、周りにいる人々との関係を築いていかなければならなくなるわけですが、ここで教えられることは、「人に教える力」を持つということもその大切なことの一つだということです。

 私たちは、人を思うように使うことによってではなくて、教えたり、また教わったりすることで、仕事は動いていくんですね。

 もし、神が与えて下さる知恵をもって教えることができるのだとしたら、私たちはそこに神の栄光を拝することができるのではないでしょうか。

 私たちは教える賜物を・・、ただし愛をもって教える賜物を、積極的に求めて行くべきなのではないでしょうか。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

 
2024.02.20.Tue 10:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 今年から、月曜日は「聖書のことば」をお休みにすることにしたのですが、やはり月曜日にもマナはいただきたいなという思いが与えられ、祈った結果、月曜も再開することにしました。
 毎日、たっぷり栄養をいただいてください。


" イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。"
 出エジプト記 35章29節

 モーセはイスラエルの民に、幕屋とそのための務めをする祭司のために必要なすべてのものを整えるために、献げ物(奉納物)を持ってくるように、民に命じます。
 そして、このモーセのことばに心を動かれた者たちは、必要なものをことごとく持ってきました。
 また女たちは必要な「青、紫、緋色の撚(よ)り糸」の為に、糸を紡ぎ、また亜麻布を紡いで持ってきました。(25-26節)
 そして族長たちは祭司が着る装束に必要な「縞(しま)めのうや宝石」を持ってきました。

 これらのことが書かれているのはこの前後、5節から29節までですが、その中に出てくることばは・・
 心に知恵のある者、心を動かされた者、霊に促しを受けた者、進んで献げる心のある人、心に知恵のある女、心を動かされ,知恵を用いたいと思った女・・などで、それらのことばが立て続けに出てくるのです。そして今日の箇所・・

 それを進んで献げるものとして主に持ってきた・・。

 すなわち、持ってきたものはみな「進んで献げたもの」だったというわけです。

 前回にも書いたとおり、それが神が望まれることで、「進んで献げたもの」によって、このイスラエルの民の心臓部とも言える部分が建て上げられること・・それを神は望まれているというわけです。

 それは結局、教会はその場を構成する人々の心によって建て上げられていくということを示しているのではないでしょうか。

 私たちに命じられている第一の命令・・、それは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。
 その愛が、私たちの行動の原動力となり、さらにそれが隣人への愛の力となっていくのです。

 私たちの心が何を見ているのか・・、いつもそこに着目していたいものですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.19.Mon 11:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
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