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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています
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今週の「たいむ」は・・

【心を開いて】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=asP5YPAaBzo&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

 
2024.03.30.Sat 09:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。
「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。"
 民数記 1章1~2節

 民数記に入ります。
 私たちの頭の中では、すでに旅が始まっているように思ってしまうかも知れませんが、旅はこれから始まるのです。

 エジプトを出てから丸二年と少し経った第二の月・・。
 そこで神がモーセに告げられたこと・・、それはイスラエルの頭数、すなわち二十歳以上の戦に出ることができる男子をその軍団ごとに登録せよということでした。
 そして一族のかしらが部族ごとに一人ずついて、モーセとアロンを助ける者とならなければならないと主は言われ、そのひとりひとりを名を呼んで指名されるのです。(4-16節)
 そして彼らが分団のかしらとなります。

 登録された者(戦える男子)の総数は六十万三千五百五十人。(46節)
 ただ、レビ族だけは登録はされませんでした。彼らは幕屋における務めのためにもっぱら働く者だからだったからです。

 いよいよ新しい旅に出るに当たって、必要だったのは、その民を統率する体制と、戦いへの備えだったというわけです。

 私たちも信仰生活の出発に当たり、そのための備え・・それがないと、無計画な行進になってしまうんですね。

 その備え・・それは戦いのために神が与えられた武具(エペソ6章参照)の確認と、これから旅立つ者として、きちっと態勢を整えることなのではないでしょうか。

 それは、神との歩みに於いて、第一番目に必要なことをまず整理して、それを生活の中に取り入れて、信仰生活の歩みの態勢へと、生活スタイルを変えるということです。

 今一度立ち止まって、これらの準備をするために祈りませんか。

 これから地上での(霊の)戦いの旅が始まるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
 
  
2024.03.29.Fri 11:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。"
 レビ記 27章30節

 レビ記最後の章の、ほぼ最後のところです。
 この章の前半は、主に特別な誓願を立てるとき、老若男女がそのときにささげる、評価額がそれぞれ記されています。
 さらに、人が落ちぶれてそれを払えないのなら、祭司がその人の能力に応じて評価額を決める・・など。
 そしてそれは家畜、家、畑で代用しても良い・・など。
 
 要するにささげ物は自分の財産の中からするものであり、それはその人に応じたものを主は受け入れてくださるのだということが書かれており、その最後に書かれているのが今日の箇所です。

 私たちが自分が得たものとして、その恵みを享受している財産・・それらの十分の一は主のものだというのです。
 しかもそれは「主の聖なるものである」と、ここには記されています。
 十分の一が主の聖なるものであるなら、それは私たちが手をつけることはできないものです。
 ここに十分の一のささげ物の基本的な考え方が示されています。

 それは、私たちが今の受けている恵みのすべては本当に主が与えてくださったものであるという信仰の表明に他なりません。

「十分の一献金」をする人がいます。
 それは、これは本当にあなたのものですという信仰を主に表明する「礼拝」なんですね。

 私たちは霊とまことをもって礼拝するべく召された者・・、ならば献金においてもそれを「礼拝」とするなら、それなりの結果がそこに現れると、聖書に記されているのです。

 " 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。" (マラキ書3:10)

 主が生ける主であることを、ここでも見ることができるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

  
2024.03.27.Wed 11:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。
 わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。"
 レビ記 26章11~12節

 この章は、偶像を拝まず、安息日を守り、主の掟に従って歩み、主の命令を守り、それを行うなら・・、というところから始まっています。
 そしてもしそれを行うなら、このような祝福が、必ずあなたの上にあるのだ・・と。
 それは、雨、産物、収穫、食料、敵対勢力からの守り、さらに敵を敗走させるほどの力、そして子の祝福など。(4〜9節)

 しかしもし、主に聞き従わず、主の命令を行わないなら、次のようなのろいがあなた方を襲う・・と。
 恐怖、肺病と熱病、敵の襲来、そして敗走。地は不毛となり、収穫もなくなる。野の獣は子を襲い、家畜も襲う。そしてあなた方は飢餓によって自分の子を食べるようになる・・と。

 完全に真逆な祝福とのろいの道が、目の前に置かれているというのです。

 そしてもし、この祝福の中に立ち続けるならといって語られた主のことばが今日の箇所です。

 この主の約束は、今の私たちの上にもある約束なんですね。
 私たちも主を愛し、主と共に歩むことに心を砕いて、主が喜ばれるその道を行くなら・・、

 主が内に住んでくださるというのです。そして主は、私たちの神としてそこに厳然といてくださるようになり、私たちは主のものとなって、喜びの中を歩むようになるというのです。

 先ずはこの神である主を第一として、そしてこの主のことばに聞き従って、生活の一コマ一コマを、そう、生活の一コマ一コマを・・歩んでいきたいですね。

 実際に主がなさることを目の当たりにしながら日々を過ごす者となる・・、このことを主は約束してくださっているのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.26.Tue 09:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" たとえ、これらの方法によって買い戻されなかった場合でも、ヨベルの年には、その子らと一緒に出て行くことができる。
 イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。"
 レビ記 25章54~55節

 レビ記25章には、安息の年とヨベルの年に関する規定が書かれています。

 安息の年とは、耕地に関する規定で、七年目にはその土地を耕作に使用せず、休ませなければならないというもの。
 そしてヨベルの年は、その安息の年を七回繰り返した次の年、すなわち50年目の年には、奴隷状態だった者や、負債を負ったすべての者が、もとの地位に戻ることができる。
 そのために必要に応じた「買い戻し」が必要ではあるが、たとえ、「これらの方法によって買い戻されなかった場合でも」・・というのが今日の箇所です。

 要するに、50年ごとになんとかして、もとの「主から与えられた」状態に戻らなければならないというのが、このヨベルの年であるわけですが、たとえそれができなかったとしても、すべての者はその負債から解放されるというのです。

 イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである・・。

 すなわち、主によってエジプトからあがない出されたこの民は、主のものであって、だれの所有とされるものでもないというわけです。

 神のものとされた者は、この地上にあってどんな状態になったのだとしても、あくまでも神のものなんですね。

 このヨベルの年の規定は、今この世にあって、どんなに辛いことがあったのだとしても、そのすべては天の御国では完全に帳消しになるということを思い起こさせてくれます。

 ヨベルの年の基本理念は「強制的な原状回復」です。

 私たちは「帰るべき家」に帰る者とされた者です。
 その時に私たちはすでに神の家の子となってしまうのであり、それまでのこの世にある負債は全く関係がなくなるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.25.Mon 14:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。"
 レビ記 24章20節

 前回は「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」という箇所でした。
 そしてそのあとに出てくるのが今日の箇所で、あの有名な「目には目を、歯には歯を」ということばは、聖書の中のことばなんですね。

 しかし今日のこの有名な箇所は、「やられたらやり返してもいい」というのとはちょっとニュアンスが違います。
 この償いの方法は神が定められたものなので、もしそのようなことがあるならば神の権威によって「公式に」裁かれなければならないのであり、その基準が「目には目を」ということだというわけです。

 私たちは、神に背を向け、自分勝手な道を歩む、生まれながらの罪人でした。
 ならば「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」というみことばに照らし合わせるならば、私たちはいのちの源である神を無視し、歩んでいこうとしていたその歩みは死罪に当たることになります。

 福音が指摘する罪びととは、このことなんですね。
 私たちはもともと死罪のもとにある・・すなわち、最後の審判に於いては火の池に放り込まれるしかない者なのだ・・というのです。
 そしてその基本があるにもかかわらず、あわれみによって神は私たちに赦しの道を供えてくださったというのが福音すなわち「Good News」なのです。

 それは、私たちの罪を御子に負わせるというやり方でした。
 そして実際に神はそれを実行されたのです。
 あとは私たちはそれを信じて、受けとるだけで、この無罪放免は実際に私たちのものとして与えられるのです。

 神は、この「信じる」ということを一つの切符とされました。
 赦しのみわざは完了した・・、しかしその切符を受けとらない者はそれに与(あずか)ることはできない・・。

 そしてこの切符を受けとった人々を、神は終わりのときに御子にあってよみがえらせる・・、これが福音なのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.25.Mon 14:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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今週の「たいむ」は・・

【目的地がある】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=9bXOuzRC85A&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

 
2024.03.23.Sat 11:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。"
 レビ記 24章20節

 前回は「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」という箇所でした。
 そしてそのあとに出てくるのが今日の箇所で、あの有名な「目には目を、歯には歯を」ということばは、聖書の中のことばなんですね。

 しかし今日のこの有名な箇所は、「やられたらやり返してもいい」というのとはちょっとニュアンスが違います。
 この償いの方法は神が定められたものなので、もしそのようなことがあるならば神の権威によって「公式に」裁かれなければならないのであり、その基準が「目には目を」ということだというわけです。

 私たちは、神に背を向け、自分勝手な道を歩む、生まれながらの罪人でした。
 ならば「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」というみことばに照らし合わせるならば、私たちはいのちの源である神を無視し、歩んでいこうとしていたその歩みは死罪に当たることになります。

 福音が指摘する罪びととは、このことなんですね。
 私たちはもともと死罪のもとにある・・すなわち、最後の審判に於いては火の池に放り込まれるしかない者なのだ・・というのです。
 そしてその基本があるにもかかわらず、あわれみによって神は私たちに赦しの道を供えてくださったというのが福音すなわち「Good News」なのです。

 それは、私たちの罪を御子に負わせるというやり方でした。
 そして実際に神はそれを実行されたのです。
 あとは私たちはそれを信じて、受けとるだけで、この無罪放免は実際に私たちのものとして与えられるのです。

 神は、この「信じる」ということを一つの切符とされました。
 赦しのみわざは完了した・・、しかしその切符を受けとらない者はそれに与(あずか)ることはできない・・。

 そしてこの切符を受けとった人々を、神は終わりのときに御子にあってよみがえらせる・・、これが福音なのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.22.Fri 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。"
 レビ記 24章15節

 前回の第七の月の「全き休みの日」に続いて、その月の15日から一週間にわたる「仮庵の祭り」について記されています。
 要するに年間の守るべき三つの祭りが、年頭の過越の祭り、そして半年後の仮庵(かりいお)の祭り、そしてもう一つが収穫を感謝する祭りということになります。
 そして24章前半には、祭司が聖所に於いて整えておかなければならないこと、すなわち燭台のともしび、備えのパンと香のことなどが記されています。

 そしてそのあとに話が突然、エジプト人を父とする者、すなわち混血であるその男とイスラエル人が宿営の中で争ったという出来事に移ります。

 混血であるその男に対してどのように接するべきであったかは、ここには記されていませんが、この男は争った際に「御名を汚し、ののしった」とあります。(10-11節)

 人々はこの男を捕らえ、主が何と言われるのかを彼らは待ちます。
 そして主がモーセに語られたことは、「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。」(14節) でした。それに続くことばが今日の箇所です。

 自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う・・。

 彼は、混血だからということではなくて、主をののしったことによって死刑になったのです。(16節参照)

 それと同様に私たちも、主をののしるなら、主と共にいる場所はなくなるんですね。
 そしてそれは死を意味するというのです。

 主と共にいられなくなるなら、それはいのちを損なうことに等しいのです。

 主を恐れる・・その根拠は、この主が私たちのいのちだからなのです。

 私たちは主を恐れなければならないのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.21.Thu 11:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥(なだ)めの日であり、あなたがたの神、主の前であなたがたのために宥めがなされるからである。
 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。"
 レビ記 23章28~29節

 23章では、主の例祭、すなわち定期的に召集する祭りについて、いくつか書かれています。

 第一の月の14日の過越(すぎこし)の祭りと、それに続く種なしパンの祭り。(5-8節)
 約束の地に入って穀物を収穫した際の「新しい穀物のささげ物を主に献げる」という、収穫を主に感謝する祭り・・(9-22節)
 そして第七の月の一日は「全き休みの日」という聖なる会合の日で、その月の十日は「宥めの日」となる・・。それが今日の箇所です。

 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる・・。

 もし何の罪も犯してはいないのなら、主を宥める必要はありません。
 でももし、そういうことを言うのだとしたらそれは、「自らを戒めない者」だと、ここでは言っているわけです。
 しかもその者は死刑だと・・。

 私たちは、クリスチャンになったとしても、さまざまな罪を無自覚に犯してしまうようなものです。
 ですから、日々主の十字架を見上げて、その罪をゆるしていただくというのが、私たちが赦しの中を歩んでいくためには欠かすことのできない歩みです。

 しかしながら、それらの罪について無頓着で、罪々と言って気にしすぎだというような感覚の中に自分を置く・・すなわち「自らを戒めない者」になってしまうのだとすると、赦しなどということはもう必要のないものになってしまうわけです。

 しかしそれは、聖めの道に向かう道にはつながらないんですね。
 私たちは罪とはっきり向き合い、そしてそれを主が十字架で負って下さったというところにいつも立つのでなければ、私たちの道は聖めには向かわないのです。

 私たちは「聖めの道」を歩むために、主に召されているです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.20.Wed 12:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
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