" 彼らが集まって来たとき、パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。
私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。"
使徒の働き 20章18~19節
パウロがミレトスに各地の教会の長老たちを呼び寄せ、そして語り始めたこの説教。それは遺言説教とも言えるものでした。
この話を聞いている長老たちは、パウロが最初にアジアに足を踏み入れたときから、どのようにして各地の教会と関わってきたかを、よく知っていました。
パウロのこの宣教の行程には、常に陰謀といのちの危険が付きまとっていました。一度は石打ちに会い、ほぼ死んだのではないかと思われるような傷も負いました。
パウロが宣教の旅を始めて以来、そこにはいつも試練がありましたが、そこでの姿勢は常に「謙遜」であり、涙が伴っていたというのです。
そしてそのことの本質は「主に仕えること」だとパウロは言っているわけです。
主に仕える・・、それはすべての人のために十字架にかかられて、いのちを差し出してくださった主イエス・キリストに仕えるということです。
ですから、宣教の働きは自ずとこのキリストの形を帯びることになります。
謙遜とは、うわべの言葉のことではなく、心の姿勢が行動に表れてきたものです。
その心の姿勢こそが、主イエス・キリストの十字架なんですね。
そしてそこには常に涙が伴っていたというのです。
その涙・・、それは魂の救いをうめくようにして求めて出てくる涙なのではないでしょうか。
パウロの試練、謙遜、涙・・そのすべては、主がいのちをかけて私たちを愛してくださった、その愛から来ているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)