" レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」"
創世記 5章28~29節
アダムから数えて9代目のレメクはノアの父です。
レメクのこのことばは、ノアが生まれるまでの180年間、「この地」が主にのろわれた地であることを、いやというほど感じつつ生きてきたことをうかがわせます。
そして、このノアという子が「私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」と言ったのです。
それはまさに「預言」でした。
神の子としての細い一本の流れのほぼ最後のレメクも、神と共にあり、神の御心を慕い求めていた人であったことがわかります。
ですから「慰められる」というのは、他でもないノアの洪水による神のさばきのことだったわけです。
神に背を向ける人たち、それも周囲のほぼすべての人々が、レメクをどれだけ苦しめていたかがうかがわれます。
それは同時に、そんな中でレメクが「神の支配による御国」を仰ぎ見て歩んでいた人であることを示すものでもあります。
神とともに歩む者は、天の御国の輝きと喜びを知っているんですね。
私たちクリスチャンも、世の人々とはまったく異なる価値観の中に生き、たとえそれを認める人がひとりもいなかったとしても、「天の御国を仰ぎ見て歩む者」です。
私たちが本当に慰められるのは、終わりのとき、最後の最後の決着の時なんですね。
実にノアの洪水は、その最後の決着の時の型であるわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)